H16.10.28 東京高裁 平成15(行ケ)404 特許権 行政訴訟事件

平成15年(行ケ)第404号 審決取消請求事件
口頭弁論終結の日 平成16年10月14日
            判        決
          原       告   東洋鋼鈑株式会社
          同訴訟代理人弁護士   飯 田 秀 郷
          同           栗 宇 一 樹
          同           早稲本 和 徳
          同           七 字 賢 彦
          同           鈴 木 英 之
          同           隈 部 泰 正
          同           大 友 良 浩

          同     弁理士   太 田 明 男
          同           入 交 孝 雄
          被       告   片山特殊工業株式会社
          同訴訟代理人弁護士   松 本   司
          同           岩 坪   哲
            主        文
           1 特許庁が、無効2000−35066号事件について、平成15年8月12日にした審決を取り消す。
           2 訴訟費用は被告の負担とする。
            事実及び理由
第1 請求
    主文同旨
第2 事案の概要
 1 争いのない事実
   (1) 手続の経緯

     被告は、発明の名称を「電池用缶および該缶形成材料」とする登録第2810257号(平成3年7月12日出願、特願平3−172845号、以下「本願」という。平成10年7月31日設定登録。)の特許権(以下「本件特許」という。)を有している。
     本件特許の各請求項記載の発明について、原告から、平成12年1月31日に無効審判が請求され、特許庁は、同請求を無効2000−35066号事件として審理した結果、平成15年8月12日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決(以下「本件審決」という。)をし、その謄本は、同月22日、原告に送達された(なお、本件特許については、平成11年4月8日及び同月14日に異議の申立てがなされ、平成11年異議第71314号事件(以下「本件異議事件」という。)及び平成12年(行ケ)第510号特許取消決定取消請求事件として審理された結果、平成15年1月7日に「特許第2810257号の請求項2、4、7に係る特許を取り消す。同請求項1、3、5、6、8、9に係る特許を維持する。」との異議の決定(以下「本件決定」という。)がなされ、確定している。)。

   (2) 本件特許発明の要旨
     本件特許の各請求項に記載された各発明のうち、本件決定の確定により、本件特許に係る明細書(以下「本件明細書」という。)の特許請求の範囲の請求項2、4及び7に係る発明は取り消され、本件審決の対象となった本件特許の請求項に記載された各発明(以下「本件各発明」という。)は、本件明細書の特許請求の範囲の請求項1、3、5、6、8及び9に記載され、本件審決に記載された、以下のとおりである。
   【請求項1】冷延鋼板の内外両面にメッキを施したメッキ鋼板を、DI(Drawing and Ironing)絞り加工で一端開口の筒形状の電池用缶としたものであって、上記缶周壁の内面に、縦、横、斜め方向にランダムな多数の楔模様の割れを表面に有する硬質メッキ層を備え、この割れにより缶中空部に充填する充填材との接触面積を増大させていることを特徴とする電池缶。

   【請求項3】冷延鋼板の両面にメッキを施したメッキ鋼板からなり、DI絞り加工で電池用缶を形成するために用いられるもので、上記DI絞り加工に周壁内面となるメッキ鋼板の一面に、DI絞り加工時に縦、横、斜め方向にランダムな多数の楔模様の割れを発生させる硬質メッキ層を備えていることを特徴とする電池用缶の形成材料。
   【請求項5】上記メッキ鋼板は、上記DI絞り加工時に周壁内面となるメッキ鋼板の一面に、DI絞り加工時に縦、横、斜め方向にランダムな多数の楔模様の割れを発生させる硬質メッキ層を備えている請求項4に記載の電池用缶の形成材料。
   【請求項6】上記メッキ鋼板の縦方向、横方向、および斜め方向の各ランクフォード値(幅方向の変形度/板厚方向の変形度)の平均が1.2以上である請求項3乃至請求項5のいずれか1項に記載の電池用缶の形成材料。

   【請求項8】上記冷延鋼板の一面にFe−Ni拡散層を介して硬質メッキ層を備えると共に、冷延鋼板の他面にFe−Ni拡散層を備えていることを特徴とする請求項3乃至請求項7のいずれか1項に記載の電池用缶の形成材料。
   【請求項9】上記冷延鋼板の両面に形成するFe−Ni拡散層の厚さを異ならせていることを特徴とする請求項8に記載の電池用缶の形成材料。
     なお、上記請求項5、6及び8において引用している請求項4及び7は、次のとおりである。
   【請求項4】冷延鋼板の両面にメッキを施したメッキ鋼板からなり、DI絞り加工で電池用缶を形成するために用いられるもので、上記メッキ鋼板の縦方向、横方向、および斜め方向のランクフォード値(幅方向の変形度/板厚方向の変形度)の差を±0.15以下に設定し、その長さ方向、長さ方向と直交する横方向および斜め方向の伸び率を略一定に設定していることを特徴とする電池用缶の形成材料。

   【請求項7】上記メッキ鋼板の絞り加工で缶周壁外面となる面に、光沢メッキ層を備えている請求項3乃至請求項6のいずれか1項に記載の電池用缶の形成材料。(以下、上記の各発明を、請求項の番号の記載に応じて「本件発明1」、「本件発明3」ないし「本件発明9」という。)
   (3) 本件審決の理由の要点
     本件審決は、別紙審決書写し記載のとおり、原告の主張する以下の無効理由@ないしB(以下「無効理由1」ないし「無効理由3」という。)及び提出した証拠方法によっては、本件各発明に係る特許を無効にすることはできないとしたものである。
    @ 本件各発明に係る特許は、特許法36条4項又は5項(いずれも平成6年法律第116号による改正前のもの)に規定する要件を満たしていない。
    A 本願の明細書についてなされた平成8年7月25日付、あるいは平成10年4月10日付手続補正は、願書に最初に添付した明細書(以下「当初明細書」という。)又は図面に記載した事項の範囲内においてなされたものではないから、これらの補正は明細書の要旨を変更するものである。したがって、本願の出願日は、これらの手続補正がなされた平成8年7月25日、あるいは平成10年4月10日に繰り下がるから、本件各発明は、本願前に頒布された刊行物である審決甲第7号証(本訴甲10、特開平5−21044号公報、本件特許の公開公報)に記載された発明(以下「引用発明10」という。)と同一であり、さらに、本件発明6は、引用発明10に基づいて、当業者が容易に発明をすることができたものであるから、本件各発明に係る特許は、特許法29条1項、2項の規定に違反してなされたものである。

    B 本件各発明は、審決甲第2号証(本訴甲5、「金属表面技術」Vol.12,No.2,1961、17〜22頁「光沢ニッケルメッキにおける光沢剤および電着物の二三の性質について」)、審決甲第3号証(本訴甲6、特開昭60−180058号公報)、審決甲第4号証(本訴甲7、「電池便覧」(丸善株式会社平成2年8月20日発行)276〜278頁)、審決甲第5号証(本訴甲8、「日本機械学会誌」第84巻第748号(昭和56年3月)44〜48頁「最近のスチールDI缶成形法の課題」、以下「引用例8」という。)及び審決甲第6号証(本訴甲9、「鉄と鋼」第56年(1970)第1号28〜43頁「リムド鋼板の深絞り性におよぼすC量の影響」、以下「引用例9」という。)記載の周知の事実を参酌すれば、本願の出願前に頒布された刊行物である審決甲第1号証(本訴甲4、特開平3−104855号公報)に記載された発明(以下「引用発明4」という。)に基づいて、当業者が容易に発明をすることができたものであるから、本件各発明に係る特許は、特許法29条2項の規定に違反してなされたものである。
 2 原告主張の本件審決の取消事由の要点
    本件審決は、無効理由Bのうち、請求項4を引用する本件発明6(以下「本件発明6(4)」という。)についての容易想到性の判断を誤る(取消事由1)とともに、無効理由Aに関する判断を誤った(取消事由2)ものであるから、違法として取り消されるべきである(本件審決中、無効理由@についての判断と、無効理由Bのうち、本件発明6(4)を除く本件各発明に関する判断は、いずれも争わない。)。
   (1) 本件発明6(4)についての判断の誤り(取消事由1)
     本件審決が、本件発明6(4)と引用発明4とを対比して認定した一致点並びに相違点1及び2と、これらの相違点について当業者が容易に想到し得ると判断した(17頁、14〜15頁)ことは、いずれも争わない。
     また、上記両発明のその余の相違点が、本件審決が相違点4として、「メッキ鋼板の縦方向、横方向、および斜め方向のランクフォード値(幅方向の変形度/板厚方向の変形度)の差を±0.15以下に設定し、その長さ方向、長さ方向と直交する横方向および斜め方向の伸び率を略一定に設定し、かつ、メッキ鋼板の縦方向、横方向、および斜め方向の各ランクフォード値(幅方向の変形度/板厚方向の変形度)の平均が1.2以上であること」(17頁)と認定したとおりであることも認めるが、その相違点の検討において、「甲第5号証(注、本訴甲8)には、引用発明(注、本訴引用発明4)における、冷延鋼板の両面にニッケルメッキを施したニッケルメッキ鋼板からなる電池用缶形成材料として、
が1.2以上のものであって、しかもΔrが±0.15以下のものについての開示がないことは明らかである。また、甲第6号証(注、本訴甲9)には、リムド鋼板のΔR値、r値について・・・記載されているが、これらは何れも、冷延鋼板の内外両面にニッケルメッキを施したニッケルメッキ鋼板からなる電池用缶形成材料として、値が1.2以上のものであり、しかも、Δr値を±0.15以下とすることを開示乃至示唆するものではない」(18頁)と認定判断したことは、以下のとおり、誤りである。
     ア 本件審決が、引用例8及び9には、
が1.2以上のものであって、しかもΔrが±0.15以下のものについて開示がないと判断したことは、本件特許の出願日前の技術水準・技術常識からかけ離れたものである。
       すなわち、本件特許の出願日前において、プレス成形、絞り加工、DI加工時の加工性及び耳発生の防止の観点から、冷延鋼板ないしは錫メッキ鋼板(ブリキ)、クロムメッキ鋼板(ティンフリースチール)、亜鉛メッキ鋼板等の各種メッキ鋼板について、平均r(r(編注rに上線あり)値)及びΔrがそれぞれの指標として重視され、かつ、平均rが1.2以上、Δrが±0.15以下となるような冷延鋼板は多数開示されており、当業者にとっては技術常識であったことが明らかである(甲11〜27)。

       したがって、引用例8に接した当業者は、平均rが1.2以上のものであって、しかもΔrが±0.15以下のものについて当然に開示されていると判断する。また、引用例9に接した当業者は、平均r値が高く、Δr値の絶対値が小さいものが、深絞り性がよく、そしてその成形後の耳の発生が極力小さくなることを当然に読み取る。
       つまり、耳発生の防止をするためには、所望の深さに深絞りないしDI加工を施せることが大前提であり、平均r値が1.2未満のような場合には、良好な深絞り性が確保されず、耳発生以前に所望の深絞りないしDI加工が施せないのであるから、耳発生防止を図る場合には、所望の加工が可能であり、かつ、加工後に耳の発生がないこと、すなわち、平均r値及びΔr値を併せ考慮するのが技術常識であり、これを別の技術事項であるとすることはできない。

     イ 被告は、本件発明6(4)が、メッキ鋼帯をDI絞り加工により電池用缶に形成するについて、イヤリング防止のためにΔr値±0.15以下、平均r値1.2以上という数値が「実用上の最適条件」、「実用的価値を有する最適値」であることを知見した点に進歩性を有すると主張する。
       しかし、本件明細書には、本件発明6(4)による具体的なイヤリング性能の向上などについて全く記載されておらず、「実用上の最適条件」であるとの根拠はない上、Δr値±0.15以下、平均r値1.2以上という数値は、被告自身の開発発明に基づくものではなく、被告の取引上の顧客であった訴外松下電池工業株式会社(以下「松下電池」という。)の指定によるものである。
       すなわち、弁護士法23条の2第1項に基づく弁護士照会申出に基づく松下電池の回答(甲33の1〜3、以下「松下回答」という。)によれば、松下電池は、昭和62年ごろ、すなわち、本件特許出願以前に、松下電池向けメッキ鋼板用の原板(冷延鋼板)の製造会社(訴外日本鋼管株式会社、以下「日本鋼管」という。)を通して、被告に対しDI絞り加工により電池用缶に形成する材料として(ニッケル)メッキ鋼板をΔr値0.15以下、平均r値1.2以上という数値に調整して納入するよう指示をしたものである。

     ウ 以上のとおり、平均r値とΔr値を併せ考慮することは、本件発明6(4)出願当時の当業者にとって当然の技術であり、相違点4は実質的な相違点ではないから、同発明は、進歩性を有するものではない。
   (2) 手続補正に関する判断の誤り(本件各発明の進歩性判断の誤り、取消事由2)
     本件審決が、平成8年7月25日付手続補正書(甲28)による補正(以下「本件補正」という。)が明細書の要旨を変更するものであったにもかかわらず、これを否定し、「本件特許の出願当初の明細書の記載内容全体から見れば、本件特許の出願当初の明細書には、ランクフォード値の平均r値1.2以上及びランクフォード値の±0.15以下という2つの要件を共に必須とする(・・・)ことが望ましい条件である旨記載されていることは認められるが、長さ方向、横方向、斜め方向の伸び率を一定にすることによってイヤリング発生防止が図られるとされているのであるから、必ずしも、2つの要件を共に満足することが必須とされていたものとは認められない。そうであれば、平成8年7月25日付、あるいは、平成10年4月10日付手続補正によって、これら2つの要件を別個に構成要件とする発明が特許請求の範囲の請求項に記載されることになったとしても、このことによって、前記補正が明細書の要旨を変更するものであるとすることはできない。したがって、本件出願の出願日は、手続補正がなされた日に繰り下がるものではなく、現実の出願日である平成3年7月12日であるから、甲第7号証(注、本訴甲10)は本件出願前に頒布された刊行物であるとはいえない」(13頁)と判断したことは、以下のとおり、誤りといわなければならない。
     ア 当初明細書の特許請求の範囲には、「縦方向、横方向及び斜め方向のランクフォード値(幅方向の変形度/板厚方向の変形度)の差」(Δr)と縦方向、横方向及び斜め方向のランクフォード値の平均r値に関して全く記載がなかった。また、発明の詳細な説明の項(【0008】と【0024】)によれば、(ア)ランクホード値の平均r値が1.2以上で、かつ、(イ)上記縦方向、横方向及び斜め方向のランクホード値の差(Δr)が±0.15以下であることの、2つの条件を満たすことを発明の内容としており、縦方向、横方向及び斜め方向のランクホード値の差(Δr)が±0.15以下であることのみで十分であるとは全く記載されておらず、示唆もされていない。

       これに対し、本件補正の結果、本件発明2及び4は、(イ)のΔrの値が±0.15以下であることのみを要件としており、請求項3を引用する本件発明6(以下「本件発明6(3)」という。)は、(ア)の平均r値が1.2以上であることのみを要件としている。すなわち、本件補正によって、本件発明2、4及び6(3)は、(ア)又は(イ)のどちらかを要件とする内容に変質してしまったから、本件補正は、明細書の要旨を変更するものである。
     イ しかも、取消事由1で述べたように、耳発生の防止をするためには、平均r値及びΔr値を併せ考慮するのが技術常識であり、これを別の技術事項であるとすることはできないのであるから、当初明細書には、平均r値1.2以上及びΔr値±0.15以下という2つの要件を共に必須とすることが開示されていたことは明らかである。

     ウ 以上のとおり、本件補正は、明細書の要旨を変更するものであったから、本件特許に適用されるべき特許法40条(平成6年法116号による改正前のもの)の規定により、本件各発明は、当該手続補正書を提出した日である平成8年7月25日に出願したものとみなされる結果、引用発明10に基づいて、その進歩性が否定されるべきである。
 3 被告の反論の要点
   本件審決の認定・判断は正当であり、原告主張の取消事由はいずれも理由がない。
   (1) 取消事由1について
     ア 本件発明6(4)は、DI絞り加工した電池用缶及び該電池用缶の形成材料たるメッキ鋼帯に関し、イヤリングの発生防止の観点から長さ方向、横方向、斜め方向のランクフォード値の差(Δr)が±0.15以下で、かつ、各ランクフォード値が平均1.2以上との実用上の最適条件を知見した点に進歩性を有するものである。引用例8にDI絞り材(ブリキ材)におけるr値と限界絞り比との関係(r値が1.2以上のもの)が記載されているからといって、同引用例に記載の電池用缶の形成材料を、本件発明6(4)のようにすることが示唆されるわけではなく、引用例8及び9に基づいて、引用発明4を本件発明6(4)のようにすることが示唆されるものではないとした本件審決の判断に、誤りはない。

       原告は、本件発明6(4)の技術分野(DI絞り加工により電池用缶を形成するメッキ鋼帯)とは異別の技術分野におけるΔr及びrに関する公知文献から、偶々Δr±0.15以下で、かつ/又はr1.2以上のもののデータが存在することを指摘しているにすぎない。しかし、このようなデータを寄せ集めたところで、電池用缶形成材料としてメッキ鋼帯を用いる場合の最適値として具体的なパラメータの限界値(Δr±0.15以下でかつr1.2以上)に想到することが当業者にとって容易であったとすることは、明らかに論理の飛躍がある。そもそも、メッキ種類が相違し用途も相違する公知文献から、「Δr」、「r」に関する開示事項のみを抽出し、「冷延鋼板ないしは各種メッキ鋼板において平均r値を1.2以上とし、Δrの値を±0.15以下とすること」が周知技術であったとする主張自体が、電池缶形成材料、飲料缶形成材料、自動車用鋼板などを全て一括りにして技術分野を極度に上位概念化するものであり、不適切である。
       また、冷延鋼板も各種メッキ鋼板も、メッキの種類ないし鋼板の組成の違いに応じて異なる機械特性(絞り性)を有することは、技術的に自明な事項であって、それぞれ異なる機械的特性を有することが自明な異種の鋼板(その中には、冷延鋼板の両面にニッケルメッキを施したニッケルメッキ鋼板を含まない。)における「Δr」、「r」に関する開示事項を、該機械的特性の相違を度外視して「周知技術」と総括することは妥当ではない。
       しかも、原告の前記主張は、「周知技術」と称しつつ、本件審判手続に顕れなかった新たな証拠及び事実に基づいて本件発明6(4)の進歩性を弾劾しようとするもので、審決取消訴訟における新たな無効理由の主張であるから、本件訴訟の審理対象とはなり得ない。
     イ 本件異議事件において、平成12年11月9日付異議決定は、本件発明6(4)が進歩性を欠くとして取り消したが、この部分は東京高裁平成14年10月17日付判決(平成12年(行ケ)第510号、乙1、以下「前件判決」という。)によって取り消され、同判決は確定した。前件判決によれば、ブリキ材(錫メッキ鋼板)の分野において、破断強度強化(絞り性の向上)及び耳発生率低下のために、仮にrを1.2以上かつΔrを±0.15以下に設定することが公知であったとしても、その知見をそのまま、冷延鋼板の内外両面にニッケルメッキを施したニッケルメッキ鋼板に容易に適用できたとはいえないと判断された。

       換言すれば、錫メッキ鋼板とニッケルメッキ鋼板とでは機械特性において相違するために、前者の絞り性向上に関する知見を後者に適用することは容易ではなかったとの判断である。このようにメッキの種類によってDI絞り加工時における鋼板の絞り性に相違を生ずることこそ、当業者が有する技術常識であり、「改訂3版金属データブック」(乙2)に示されたニッケルと錫との機械的性質(引張強さ、伸び)の顕著な相違からも、絞り性の相違が根拠付けられている。
     ウ なお、松下回答(甲33の3)の記載は事実と異なる。すなわち、被告が、昭和60年代から松下電池に対して日本鋼管製の冷延鋼帯を原材料とする電池缶用ニッケル鋼帯を納入していた事実はある。しかし、本願以前における本件発明6(4)の実施に関する取組みは容易に成功せず、パイロットプラントにおける試作品級の鋼帯を、極めて歩留りが悪いまま使用していたというのが実情(乙11)であった。被告と日本鋼管との間で、「片山特殊工業株式会社殿向けDI加工用冷間圧延鋼帯製品仕様書」が正式制定されたのは、本願出願後の1992年3月16日であって(乙9の「5−1」頁)、該仕様書においてコイルの平均ランクフォード値を1.2以上にコントロールすることが機械特性上の仕様として決定されるに至っている(同「5−3」頁表5)。ちなみに、「平成4年3月24日付指示・連絡書」(乙10)は、松下電池の電池用鋼帯に関する内部文書であるが、その「特性」欄に「r値」は記載されていない。

  (2) 取消事由2について
      当初明細書(甲10)には、【0006】に「DI絞り加工においては、一度の工程で急激に絞るため、長さ方向、横方向、斜め方向の伸び率を一定にする必要がある。一定でない場合には、図10に示すように、円筒部開口端に大きな高低差が生じる所謂イヤリングが発生しやすい」、【0018】に「電池用缶の形成材料では・・・長さ方向、横方向および斜め方向の伸び率を略一定としているため、絞り性が良く、開口端縁にイヤリングが発生するのを防止できる」との記載があり、他方、【0008】において、従来、「ランクホード値の差が±0.15以下が望ましく、±0.15以上になるとイヤリングが発生しやすい」が、「長さ方向、横方向、斜め方向の伸び率を上記ランクホード値の差以下の略一定値にすること」は、当業者に想到困難な事項であったこと(本件発明4の構成)が明快に示されている。さらに、平均ランクフォード値を1.2以上に設定する発明が、同欄に記載されていることもいうまでもない。

      以上のとおり、本件各発明の電池用缶ないし電池用缶形成材料において、「縦方向、横方向、斜め方向のランクフォード値の差を±0.15以下に設定」すること、「ランクフォード値の平均が1.2以上」とされることは、いずれも当初明細書に記載された事項であり、上記のランクフォード値の差に関する発明の構成(鋼板の長さ方向、横方向、斜め方向の伸び率を略一定とすること)によってイヤリングの発生を最小限に抑える技術事項も、明記されている。
      したがって、上記技術事項を必須構成要件とした補正後の請求項2、同4、同6(3)は、当初明細書に記載された事項の範囲内で特許請求の範囲を変更したものに該当し、この点に関する本件審決の判断に誤りはない。
第3 当裁判所の判断
 1 取消事由1(本件発明6(4)についての判断の誤り)について

   (1) 本件発明6(4)と引用発明4とを対比した場合の一致点並びに相違点1及び2の認定、これらの相違点に係る構成を当業者が容易に想到し得る旨の判断は、いずれも本件審決が認定判断した(17頁、14〜15頁)とおりであり、当事者間に争いがない。
     また、本件発明6(4)と引用発明4とを対比した場合のその余の相違点4が、本件審決が認定したとおり、本件発明6(4)のみが「メッキ鋼板の縦方向、横方向、および斜め方向のランクフォード値(幅方向の変形度/板厚方向の変形度)の差を±0.15以下に設定し、その長さ方向、長さ方向と直交する横方向および斜め方向の伸び率を略一定に設定し、かつ、メッキ鋼板の縦方向、横方向、および斜め方向の各ランクフォード値(幅方向の変形度/板厚方向の変形度)の平均が1.2以上である」(17頁)という構成を有することも、当事者間に争いがない。

     原告は、この相違点4の検討において、本件審決が、「甲第5号証(注、本訴甲8)には、引用発明(注、引用発明4)における、冷延鋼板の両面にニッケルメッキを施したニッケルメッキ鋼板から成る電池用缶形成材料として、が1.2以上のものであって、しかもΔrが±0.15以下のものについての開示がないことは明らかである。また、甲第6号証(注、本訴甲9)には、リムド鋼板のΔR値、r値について・・・記載されているが、これらは何れも、冷延鋼板の内外両面にニッケルメッキを施したニッケルメッキ鋼板からなる電池用缶形成材料として、値が1.2以上のものであり、しかも、Δr値を±0.15以下とすることを開示乃至示唆するものではない」(18頁)と認定判断したことが誤りである旨主張するので、以下検討する。
   (2)ア 原告は、本件審決が、引用例8の「図4に示されるが1.2以上であるブリキ材が同時にΔrが±0.15以下であるとする理由は見当たらず、また、図5に示されるΔrが±0.15以下であるブリキ材についても、そのrが1.2以上であるとされているわけではない。そうすると、甲第5号証には、引用発明における、冷延鋼板の両面にニッケルメッキを施したニッケルメッキ鋼板からなる電池用缶形成材料として、が1.2以上のものであって、しかも、Δrが±0.15以下のものについての開示がない」(18頁)と認定判断したことが、誤りであると主張する。
    イ 引用例8「最近のスチールDI缶成形法の課題」(甲8)には、「スチールDI缶用素材の絞り性については、カップ成形の際に限界絞り比(L.D.R.)が高いことと、耳の発生が少ないことが要件となり、塑性ひずみ(r値)あるいは面内異方性(Δr値)に対して考慮が必要である。図4はブリキ材のr値と限界絞り比の関係を示したものであるが、ブリキ材においてもr値の絞り性に与える影響は大きく、特に鋼種によって著しく絞り性が異なることが示されている。通常、製造されているブリキ材の中にあっては、r値の高い調質度T−1クラスでL.D.R.=2.3、T−4クラスでr値の低いもので1.7程度の絞り性能を示すようである。スチールDI用素材もカッピングでのカップ破断などを避けるためには、L.D.R.=2.0以上を具備する必要がある。また、r値によって容器の缶径精度と端部の耳発生に多大な影響を与えることは周知のことである。さらに面内異方性(Δr値)が耳の大きさに影響することも既に報告されている(図5)。」(46頁)と記載され、図4「r値とL.D.R.の関係」には、上記カップ破断を避けるために必要とされたL.D.R.=2.0以上のサンプルが、4点プロットされており、それらのr値は、L.D.Rが2.0強のもの2点についてはr値が1.1と1.2強程度、L.D.R.が2.2の2点についてはr値が1.6前後であることが示され、また、図5「面内異方性の大きさと耳の関係」は、横軸にΔr値(r値の面内異方性)、縦軸に耳率(%)をとったグラフであるが、一見して両者が略比例関係あることが理解され、小さいほど好ましい耳率が1%以下にプロットされた3点について、横軸のΔr値は、略0.07≦Δr≦0.13の範囲であると理解される。
      上記の記載及び図によれば、引用例8には、ブリキ材、すなわち錫メッキ鋼板において、カッピング、つまりカップ成形時の破断などを避けるためには、L.D.R.=2.0以上を具備することが必要であって、特に図4によれば、L.D.R.=2.0以上にプロットされた4点は、r値が1.1〜1.6前後であり、小さいほど好ましい耳率については、Δr値と略比例関係にあって、耳率が最小の略1%前後にプロットされた3点について、Δr値は、約0.07〜0.13程度であることが開示されているものと認められる。

    ウ そうすると、引用例8には、ブリキ材において、カップ成形時の破断などを避けるためには、r値が1.1〜1.6前後であり、Δr値が約0.07〜0.13程度のものが開示されているから、本件審決が、前記のとおり、「図4に示されるrが1.2以上であるブリキ材が同時にΔrが±0.15以下であるとする理由は見当たらず、また、図5に示されるΔrが±0.15以下であるブリキ材についても、そのが1.2以上であるとされているわけではない。」と認定判断したことは、誤りといわなければならない。
   (3)ア また、原告は、本件審決が、引用例9には、「リムド鋼板のΔR値、r値について・・・記載されているが、これらは何れも、冷延鋼板の内外両面にニッケルメッキを施したニッケルメッキ鋼板からなる電池用缶形成材料として、
値が1.2以上のものであり、しかも、Δr値を±0.15以下とすることを開示乃至示唆するものではない」(18頁)と認定判断したことは、誤りであると主張する。
    イ 引用例9「リムド鋼板の深絞り性におよぼすC量の影響」(甲9)の30頁「3.1深絞り性(R(編注Rに上線あり,以下「上線あり」と記載)値)について」の章の「3.1.1 R(上線あり)値の変化」の項には、「R(上線あり)値の変化をFig.1に・・・示す.Fig.1よりR(上線あり)値は,(1)700℃、800℃焼鈍では,冷延率、焼鈍条件が同一であれば[C量]が低いほど高く,また[C量],冷延率が同一であれば焼鈍温度が高いほど高い.」と記載され、31頁のFig.1Aには、R(上線あり)値(R(上線あり) value)が1.2を超える冷延鋼板のデータがグラフ上にプロットされており、また、34頁「3.1.2集合組織の変化」の項には、「R(上線あり)値は集合組織によって決まることが,実験的および理論的に多くの研究者によって明らかにされており,{222}が多く,{200}が少ないほどR(上線あり)値は高く,したがって深絞り性は向上する.」と記載され、38頁「3.2耳発生挙動(ΔR)について」の章には、「ΔR値はプレス時に発生する耳の高さと非常に関係が深く,・・・|ΔR|が大きいほど耳の山と谷の差は大きくなることが認められている.」(39頁)と記載されている。
      引用例9における、R(上線あり)値、ΔR(値)は、本件発明6(4)及び引用例8における(平均)r値、Δr値に相当するものであるから、上記の記載等によれば、引用例9には、リムド鋼板において、平均r値が1.2を超えるものが示され、また、平均r値が高いほど深絞り性が向上するとともに、Δr値は、|Δr|、すなわちΔrの絶対値が大きいほど、プレス時に発生する耳の山と谷の差は大きくなるから、Δrの絶対値が小さいほど好ましいことが開示されているものと認められる。
      そして、リムド鋼板は、ニッケルメッキを含めたメッキ加工全般の対象となる鋼板であり、その深絞り性やプレス時に発生する耳の高さは、技術上、鋼板としての材質や製造方法等に由来する部分が大きいものと推測されるから、リムド鋼板に関して得られた知見は、メッキを施したリムド鋼板についても該当するであろうとの示唆を当業者に与えるものと認められる(松下回答(甲33の3)においても、冷延鋼板においてメッキの有無による平均r値及びΔr値への影響は少ないとの当業者の知見が示されている。)。

    ウ そうすると、引用例9には、リムド鋼板において、平均r値が高いほど深絞り性に優れ、Δrの絶対値が小さいほど耳発生の観点から好ましいことに関する示唆が開示されているというべきである。
   (4) さらに、原告は、松下回答によれば、松下電池は、昭和62年ごろ、本件特許出願以前に、被告に対し、DI絞り加工により電池用缶形成材料として(ニッケル)メッキ鋼板をΔr値0.15以下、平均r値1.2以上という数値に調整して納入するよう指示をしたものであり、この点からも、平均r値とΔr値を併せ考慮することが当時の当業者にとって当然の技術であり、相違点4は実質的な相違点ではない旨主張する。
     たしかに、松下回答(甲33の3)には、「当社はメッキ鋼板の素材を片山特殊工業へ供給する日本鋼管にΔr値≦±0.2、平均r値≧1.2とする仕様を指示して、昭和62年(1987年)11月に決定しました。この仕様は同月24日付け制定の「DI缶加工乾電池用冷延コイルの製品仕様書」に記載されています。当社は上記仕様の決定に先立って日本鋼管殿とΔr値≦±0.2(Δr値≦±0.15が望ましい)、平均r値≧1.2とする目標値を指示していました。」、「当社は片山特殊工業との間で仕様決定等の取り決めたことを示す資料はありません。当社は昭和62年頃に冷延鋼板においてメッキの有無による平均r値およびΔr値への影響が少ないこと、並びに変動の範囲が実験等で予測可能であるとの知見を得ており、片山特殊工業殿ではなく、上記事項に記載の通り日本鋼管殿との間で使用を決定しました。」と記載されており、この記載によれば、被告の納品先である松下電池は、昭和62年ごろ、本件特許出願以前に、松下電池向けメッキ鋼板用の原板の製造会社である日本鋼管に対し、「Δr値≦±0.2(Δr値≦±0.15が望ましい)、平均r値≧1.2とする目標値」を指示し、その指示に基づいたメッキ鋼板用の原板が被告に納品され、被告がメッキ処理を施した上、電池用缶のためのメッキ鋼板として松下電池に納品した事実が認められ、この認定事実に照らせば、平均r値とΔr値を併せ考慮するという知見は、本件発明6(4)出願前から、当業者の一部にとって知られていたものであり、被告もこのことを了解していたものと推認される。
     この点について被告は、本願出願以前において本件発明6(4)の実施に関する取組みは容易に成功していなかったのが実情であること(乙11)や、「平成4年3月24日付指示・連絡書」(乙10)の「特性」欄に「r値」が記載されていないこと等に基づいて、被告と日本鋼管との間の仕様書(乙9)において、コイルの平均ランクフォード値を1.2以上にコントロールすることを決定したのは本願出願後の1992年3月16日であり、松下回答は事実と異なると主張する。

     しかしながら、昭和62年ごろ、被告が、日本鋼管製造のメッキ鋼板用の原板を購入してメッキ処理を施し、電池用缶に加工製造するためのメッキ鋼板として松下電池に納品していた事実は、当事者間に争いがない上、乙11は、客観的資料に基づかず、本件特許の実施に至る経緯を述べる被告代表者の陳述書にすぎないし、乙10も、松下電池からの当該指示連絡に「r値」に関するが記載ないとするのみであるから、被告の購入先である日本鋼管に対し具体的な数値の指示連絡を行ったとする前記の松下回答に照らして、到底信用することができず、被告の主張には理由がない。
   (5) してみると、前記(2)認定の引用例8及び同(3)認定の引用例9の各開示事項並びに同(4)認定の松下電池の日本鋼管に対する指示事項を前提とした上、引用発明4につき、本件発明6(4)に規定された平均r値とΔr値にかかる限定値を設定することは、当業者であれば容易に想到し得たと判断せざるを得ない。

     したがって、本件審決が、「相違点4については、当業者が容易に想到し得るものであるとはいえない」(18頁)と判断したことは、誤りといわなければならず、取消事由1には理由がある。
   (6) なお、被告は、本件発明6(4)が、メッキ鋼帯をDI絞り加工により電池用缶に形成するについて、イヤリング防止のためにΔr値±0.15以下、平均r値1.2以上という数値が「実用上の最適条件」、「実用的価値を有する最適値」であることを知見した点に進歩性を有すると主張するが、本件明細書(甲3)には、本件発明6(4)におけるΔr値あるいは平均r値に関して、他の数値を採用した場合と比較してどのようにイヤリング防止性能が向上したのかを具体的に示す記載は全く認められず、「実用上の最適条件」であるとの合理的根拠も示されていないから、上記主張も採用することができない。

     また、被告は、前件判決(乙1)によれば、ブリキ材(錫メッキ鋼板)の分野において、破断強度強化(絞り性の向上)及び耳発生率低下のために、仮に平均r値を1.2以上かつΔr値を±0.15以下に設定することが公知であったとしても、その知見をそのまま、冷延鋼板の内外両面にニッケルメッキを施したニッケルメッキ鋼板に容易に適用できたとはいえないと判断されたと主張する。
     しかしながら、本件発明6(4)は、前示のとおり、電池用缶を形成するために用いられる冷延鋼板の両面にメッキを施したメッキ鋼板全般に関するものであり、錫メッキ鋼板を含むとともにニッケルメッキ鋼板に限定されるものでもないから、錫メッキ鋼板の分野における知見をニッケルメッキ鋼板に容易に適用できたとはいえないとする主張は、本件発明6(4)に関する反論としては、失当といわなければならない。

 2 取消事由2(本件各発明の進歩性に関する判断の誤り)について
   (1) 原告は、本件審決が、「本件特許の出願当初の明細書の記載内容全体から見れば、本件特許の出願当初の明細書には、ランクフォード値の平均r値1.2以上及びランクフォード値の±0.15以下という2つの要件を共に必須とする(・・・)ことが望ましい条件である旨記載されていることは認められるが、長さ方向、横方向、斜め方向の伸び率を一定にすることによってイヤリング発生防止が図られるとされているのであるから、必ずしも、2つの要件を共に充足することが必須とされていたものとは認められない。そうであれば、平成8年7月25日付、あるいは、平成10年4月10日付手続補正によって、これら2つの要件を別個に構成要件とする発明が特許請求の範囲の請求項に記載されることになったとしても、このことによって、前記補正が明細書の要旨を変更するものであるとすることはできない。」(13頁)と判断したことが誤りであり、その結果、「本件出願の出願日は、手続補正がなされた日に繰り下がるものではなく、現実の出願日である平成3年7月12日であるから、甲第7号証(注、本訴甲10)は本件出願前に頒布された刊行物であるとはいえない」(同頁)と判断したことも誤りであると主張するので、以下検討する。
   (2)ア 本件補正により補正された本件発明2、4及び本件発明3を引用する本件発明6(以下、それぞれ「補正発明2」、「補正発明4」及び「補正発明6(3)」という。)及び引用されている本件発明3は、以下のとおりである。
    【請求項2】冷延鋼板の内外両面にメッキを施したメッキ鋼板を、DI絞り加工で形成した一端開口の筒形状の電池用缶であって、上記メッキ鋼板の縦方向、横方向、および斜め方向のランクフォード値(幅方向の変形度/板厚方向の変形度)の差が±0.15以下で、その長さ方向、長さ方向と直交する横方向および斜め方向の伸び率が略一定のものであることを特徴とする電池用缶。
    【請求項4】冷延鋼板の両面にメッキを施したメッキ鋼板からなり、DI絞り加工で電池用缶を形成するために用いられるもので、上記メッキ鋼板の縦方向、横方向、および斜め方向のランクフォード値(幅方向の変形度/板厚方向の変形度)の差を±0.15以下に設定し、その長さ方向、長さ方向と直交する横方向および斜め方向の伸び率を略一定に設定していることを特徴とする電池用缶の形成材料。

    【請求項6】上記メッキ鋼板の縦方向、横方向、および斜め方向の各ランクフォード値(幅方向の変形度/板厚方向の変形度)の平均が1.2以上である請求項3乃至請求項5のいずれか1項に記載の電池用缶の形成材料。
    【請求項3】冷延鋼板の両面にメッキを施したメッキ鋼板からなり、DI絞り加工で電池用缶を形成するために用いられるもので、上記DI絞り加工時に周壁内面となるメッキ鋼板の一面に、DI絞り加工時に多数の割れが生じる硬質メッキ層を備えていることを特徴とする電池用缶の形成材料。
      以上の記載によれば、補正発明2及び4は、ランクフォード値の差、すなわちΔr値が±0.15以下であることのみを要件とし、補正発明6(3)は、各ランクフォード値の平均、すなわち平均r値のみを要件としていることが明らかである。

    イ ところで、当初明細書(甲10)には、【0006】「DI絞りにおいては、一度の工程で急激に絞るため、長さ方向、横方向、斜め方向の伸び率を一定にする必要がある。一定でない場合には、図10に示すように、円筒部開口端に大きな高低差が生じる所謂イヤリングが発生しやすい。」、【0008】「上記した問題はイヤリングの発生自体を防止できれば解消できるが、イヤリング発生防止のためには、ランクホード値が平均1.2以上で、長さ方向、横方向、斜め方向のランクホード値の差が、±0.15以下が望ましく、±0.15以上になるとイヤリングが発生する。しかしながら、平均ランクホード値を上記以上とすること、および長さ方向、幅方向、斜め方向の伸び率を上記ランクホード値の差以下の略一定にすることは極めて困難であった。」、【0018】「電池用缶の形成材料では、・・・長さ方向、横方向及び斜め方向の伸び率を略一定としているため、絞り性が良く、開口端縁にイヤリングが発生するのを防止できる」、【0024】「そのためには、前記したように、ランクホード値が平均1.2以上で、上記L方向、W方向およびX方向のランクホード値の差が±0.15以下としなければならない。」と記載されている。
      上記の記載によれば、本件補正前の【0006】欄と【0018】欄に記載されているのは、「伸び率」とイヤリングとの関係であり、これらの両欄には、「平均r値」及び「Δr値」についての記載は見当たらない。そして、当初明細書中にその定義がされていない「伸び率」が、平均r値あるいはΔr値と直接関連付けられるものであることを認めるに足りる証拠はない(かえって、丸善株式会社昭和56年4月20日発行「鉄鋼材料便覧」第2版第4刷392頁「c.伸び、絞り」の項によれば、試験片が引張試験によって破断に至るまでに伸長した長さを試験前の長さで除した割合を%で表示したものを、いわゆる”伸び”と称するものと認められるから、「伸び」あるいは「伸び率」は、平均r値あるいはΔr値と直接の関連がないものであることが明らかである。)。

      他方、【0008】欄に記載された「ランクホード値の平均」と「長さ方向、横方向、斜め方向のランクホード値の差」は、それぞれ「平均r値」と「Δr値」に該当するものであるから、同欄の記載事項をこれらの語句に置換してみると、「イヤリング発生防止のためには、平均r値が1.2以上で、Δr値が、±0.15以下が望ましく、±0.15以上になるとイヤリングが発生する。」ことを開示しているものと認められ、同様に、【0024】欄は、「そのためには、前記したように、平均r値が1.2以上で、上記Δr値が±0.15以下としなければならない。」ことを開示しているものと認められる。
      これらの開示事項のうち、【0008】欄の「イヤリング発生防止のためには、平均r値が1.2以上で、Δr値が、±0.15以下が望ましく」との表現からすると、イヤリング発生防止の目的達成のためには、必ずしも平均r値が1.2以上であるとの条件とΔr値が、±0.15以下であるとの条件が具備されていなくてもよいと解する余地がないわけではない。しかしながら、【0008】欄の上記表現に引き続いて、「±0.15以上になるとイヤリングが発生する」との表現からすると、少なくともイヤリング発生防止の目的達成のためには、Δr値が、±0.15以下であるとの条件が満たされる必要があることが明らかである。また、【0024】欄の「そのためには、前記したように、平均r値が1.2以上で、上記Δr値が±0.15以下としなければならない。」との記載によると、イヤリング発生防止の目的達成のためには、平均r値が1.2以上であるとの条件とΔr値が、±0.15以下であるとの条件がいずれも満たされることが必要であるというべきである。

      してみると、上記開示事項は、イヤリング発生防止という目的達成のためには、平均r値が1.2以上という条件と、Δr値が±0.15以下という条件とを、共に満たすことを要件としていることが明らかであり、上記の両条件のうち、いずれか一方のみを充足すれば、上記目的が達成されると解することはできないと判断せざるを得ない。
      結局、当初明細書の上記各欄には、平均r値が1.2以上という条件のみでイヤリング発生防止という目的が達成されること、及びΔr値が±0.15以下という条件のみで上記目的が達成されることは、いずれも記載されていたとはいえないのであるから、前記に認定した補正発明2、4及び6(3)は、当初明細書又は図面に記載された事項の範囲内のものということはできない。
    ウ この点について被告は、「縦方向、横方向、斜め方向のランクフォード値の差を±0.15以下に設定」すること、「ランクフォード値の平均が1.2以上」とされることは、いずれも当初明細書に記載された事項であり、上記のランクフォード値の差に関する発明の構成(鋼板の長さ方向、横方向、斜め方向の伸び率を略一定とすること)によってイヤリングの発生を最小限に抑える技術事項も、明記されていると主張する。

      たしかに、当初明細書に「縦方向、横方向、斜め方向のランクフォード値の差を±0.15以下に設定」すること及び「ランクフォード値の平均が1.2以上」と記載されていることは、前示のとおりである。しかしながら、当初明細書においては、前示のとおり、イヤリングの発生を防止するために、上記の各条件を共に充足する必要があることが開示されているのであり、補正発明2、4及び6(3)のように、いずれか一方の条件を充足するのみで上記目的を達成することができることを開示するものではないから、被告の上記主張は、採用することができない。
   (3) 以上のとおり、補正発明2、4及び6(3)を含む本件補正は、明細書の要旨を変更するものであると認められるから、本件特許の出願日は、本件補正がなされた平成8年7月25日に繰り下がるものである。したがって、これを前提として本件各発明の進歩性を検討すべきであり、原告主張の取消事由2も理由がある。

 3 結論
    そうすると、本件審決は、本件発明6(4)と引用発明4との相違点4の判断を誤った結果、本件発明6(4)の進歩性に関する判断を誤る(取消事由1)とともに、本件補正についての判断を誤った結果、本件各発明の進歩性に関する判断を誤った(取消事由2)ものであり、これらの誤りが結論に影響を及ぼすことは明らかであるから、本件審決は、取消しを免れない。
    よって、原告の本訴請求は理由があるからこれを認容することとし、主文のとおり判決する。
   
      東京高等裁判所知的財産第1部
   
             裁判長裁判官   北  山  元  章
   
                裁判官   清  水     節
   
                裁判官   上  田  卓  哉