H16. 2.13 東京高裁 平成13(行ケ)587 特許権 行政訴訟事件

平成13年(行ケ)第587号 審決取消請求事件
平成16年1月29日口頭弁論終結
                 判    決
       原      告     大日本除蟲菊株式会社
       訴訟代理人弁護士     赤 尾 直 人
       訴訟代理人弁理士     萼   経 夫
       同            中 村 壽 夫
       同            加 藤   勉
       被      告     アース製薬株式会社
       訴訟代理人弁護士     吉 原 省 三
       同            小 松   勉

       同            三 輪 拓 也
       同            竹 田 吉 孝
       訴訟代理人弁理士     朝比奈 宗 太
       同            秋 山 文 男
                 主    文
         特許庁が平成10年審判第35276号事件について平成13年11月30日にした審決を取り消す。
         訴訟費用は被告の負担とする。
                 事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
 1 原告
     主文と同旨
 2 被告
     原告の請求を棄却する。
     訴訟費用は原告の負担とする。
第2 当事者間に争いのない事実
 1 特許庁における手続の経緯
     被告は,発明の名称を「加熱蒸散殺虫方法」とする特許第2135308号(昭和59年1月31日に出願した特願昭59−16760号(以下「原出願」という。)の一部を平成3年5月13日に新たな特許出願(以下「本件出願」という。)としたもの。平成10年3月13日設定登録。以下「本件特許」という。発明の数は1である。)の特許権者である。

     原告は,平成10年6月18日,本件特許を無効にすることについて審判の請求をした。
     特許庁は,これを,平成10年審判第35276号として審理し,その結果,平成13年11月30日に,「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をし,同年12月12日にその謄本を原告に送達した。
 2 特許請求の範囲(請求項1)
   「殺虫液中に吸液芯の一部を浸漬して該芯に殺虫液を吸液させると共に,該芯の上部を間接加熱して吸液された殺虫液を蒸散させる加熱蒸散殺虫方法において,殺虫液に含まれる殺虫剤としてピレスロイド系殺虫剤を用い,殺虫液に含まれる溶媒として脂肪族系の溶剤を含み且つ以下に記載の発熱体及び吸液芯の表面温度で蒸散するものを用い,前記吸液芯として以下に記載の発熱体及び吸液芯の表面温度での使用が可能であるものを用い,表面温度が70〜150℃の発熱体にて上記芯の上部を表面温度が60〜135℃となる温度に間接加熱することを特徴とする加熱蒸散殺虫方法。」(以下「本件発明」という。)

 3 審決の理由
     別紙審決書の写し記載のとおりである。要するに,@本件特許の出願過程においてなされた平成3年6月11日付け手続補正(以下「補正1」という。),平成6年9月5日付け手続補正,平成9年8月26日付け手続補正は,いずれも適法になされたものであるから,本件出願の出願日は原出願の出願日である昭和59年1月31日とみなされ,その結果,甲第3号証(原出願の公開特許公報。以下「甲3文献」という。),第4号証(本件出願の公開特許公報。以下「甲4文献」という。)は,本件出願前に頒布された刊行物には当たらないので,これらを根拠に本件発明に特許法29条1項を適用することはできない,A本件出願の願書に添付した明細書(本訴甲第2号証の1,2はその内容を示す出願公告公報及びその訂正公報である。以下,願書に添付した図面と併せて「本件明細書」という。)に,請求人の主張する記載不備はない,B本件発明は,特開昭55−57502号公報(審判甲第5号証。本訴甲第23号証。以下「甲23文献」という。)から,当業者が容易に想到し得たものとすることはできない,C本件発明は,甲23文献及び昭和41年当時に中外製薬株式会社によって販売されていた「バルサン電気蚊とり器」の商品名による電気蚊とり器から,当業者が容易に想到し得たものとすることはできないとして,原告主張の無効事由をすべて排斥するものである。
第3 原告主張の審決取消事由の要点
     審決は,@補正1が明細書の要旨を変更するものであるにもかかわらず,誤って,変更するものではないとの誤った判断をし,その結果,本件出願に係る出願日の認定を誤り,A本件明細書に記載不備があるにもかかわらず,記載不備はないとの誤った判断をし,B本件発明が進歩性を欠如するものであるにもかかわらず,進歩性を欠如するものではないとの誤った判断をしたものであり,これらの誤りが,それぞれ結論に影響を及ぼすことは明らかであるから,違法として取り消されるべきである。
     上記各取消事由のうち,要旨変更について述べると,次のとおりである。

 1 信義則違反について
     被告は,後記別件審決が既に確定している以上,原告が上記要旨変更の主張をすることは信義則に違反する,と主張する。
     しかしながら,原告は,本件特許を無効にするためには,本件特許に基づく侵害訴訟において,要旨変更を認めて,同特許につき無効理由が存することは明白であるとした確定判決(甲第21,第22号証参照)の判断と明らかに矛盾する,本件の審決の方を取り消せば足りるから,別件審決に対する取消訴訟を提起することは必要不可欠なことではない,と判断して,本件の審決に対する取消訴訟の提起を選択し,別件審決に対しては取消訴訟を提起しなかったにすぎない。原告が別件審決を確定させたということは,決して,原告が同審決の認定判断を是認したということを意味するものではない。

     被告の主張は,何らかの関連する争点,又は共通する争点についてある審決において認定判断が行われた場合には,同審決に対する取消訴訟を提起しなければ,他の審決に対する取消訴訟においては,共通又は関連する事項に関する主張を行うことが許されなくなる,とするものであり,独自の議論という以外になく,採用し得ないことが明らかである。
     被告は,原告の主張は,出願日について,別件審決において判断された事項について,主張を蒸し返すものである,と主張する。しかし,別件審決の確定によって定まったのは,本件出願に係る出願日を出願の分割が行われた平成3年5月13日とはしない,ということにすぎない。このことと,本件出願に係る出願日を補正1が行われた平成3年6月11日とみなすことができるか否かとは,明らかに別異の事項である。主張の蒸し返しであるとの主張は当たらない。

 2 要旨変更について
   (1) 審決は,補正1が明細書の要旨を変更するものであるか否かについて,「上記a)に記載された「吸液芯(1)を支持するための芯支持体(2)を有する殺虫剤液収容容器(3)と,上記容器内にその上部を突出して挿入された吸液芯(1)」は,殺虫剤液の中に吸液芯が一部浸漬され,その吸液芯に殺虫液が吸液されるものであるから,「殺虫液中に吸液芯の一部を浸漬して該芯に殺虫液を吸液させる」に相当し,a)に記載された「その上側面部に間接的に加熱するための中空円板状発熱体」は,「芯の上部を間接加熱して吸液された殺虫液を蒸散させる加熱蒸散殺虫方法」とするためのものであり,上記b)の「通常約70〜150℃,好ましくは135〜145℃の範囲の発熱体表面温度とされ,これは吸液芯表面温度約60〜135℃に相当する」旨の記載は,「表面温度が70〜150℃の発熱体にて上記芯の上部を表面温度が135℃以下となる温度に間接加熱すること」と同じ意味であり,上記a)の記載の装置を用いて上記b)の加熱蒸散方法を行うのは,当初明細書の記載から明らかであるから,「補正1」の請求項1に係る発明は,「当初明細書に記載した事項の範囲内において特許請求の範囲を増加し減少し又は変更する補正」に該当する」(審決書19頁11行〜25行)から,適法になされたものであり,要旨変更には当たらない,と判断した。しかし,この判断は誤りである。
   (2) 補正手続において要旨変更が生じているか否かの判断は,単に双方の明細書の記載を形式的・部分的に比較するだけではなく,実質的に発明の本質又は実体に変動があるか否かを比較して,すべきであり,補正前後の明細書に記載された目的及び効果との関連で補正前後の構成を総合的に検討した上で,すべきである。
     ア 構成について
         本件出願の願書に最初に添付した明細書及び図面(以下,併せて「分割当初明細書」という。甲第4号証1頁〜11頁はその内容を示す公開特許公報である。)においては,3,5−ジ−t−ブチル−4−ヒドロキシトルエン(以下「BHT」という。)等の特定の化合物を配合したことを特徴とする吸液芯用殺虫液組成物を発明の対象としている(特許請求の範囲。以下,この特許請求の範囲に記載された化合物を総称して「BHT等」という。)。

         分割当初明細書の発明の詳細な説明中には,発熱体表面温度及び吸液芯上部の表面温度に関し,「本発明組成物を上記装置に適用して殺虫を行う方法は,従来のこの種装置の利用法と同様でよく,本発明組成物が吸液芯より蒸散し得る適当な温度に吸液芯を加熱すればよい。該加熱温度は,殺虫剤の種類等に応じて適宜に決定され,特に限定されないが,通常約70〜150℃,好ましくは135〜145℃の範囲の発熱体表面温度とされ,これは吸液芯表面温度約60〜135℃,好ましくは約120〜130℃に相当する。」(段落【0019】)との記載がある。ここにいう「本発明組成物」が,分割当初明細書の特許請求の範囲に記載されたBHT等を配合した吸液芯用殺虫液組成物を指すことは,明らかである。
         補正1の請求項1は,「殺虫液中に吸液芯の一部を浸漬して該芯に殺虫液を吸液させると共に,該芯の上部を間接加熱して吸液された殺虫液を蒸散させる加熱蒸散殺虫方法において,表面温度が70〜150℃の発熱体にて上記芯の上部を表面温度が135℃以下となる温度に間接加熱することを特徴とする加熱蒸散殺虫方法。」というものであり,これに係る発明(以下「補正発明」という。)は,いわゆる間接加熱による加熱蒸散殺虫方法において,

         a 発熱体の表面温度を70〜150℃とし,
         b 吸液芯上部の表面温度を135℃以下とする,
       ことを要件としている。
         補正発明における上記aの発熱体の表面温度及びbの吸液芯上部の表面温度は,いずれも,分割当初明細書の段落【0019】に記載された上記の発熱体の温度範囲及び吸液芯表面の温度範囲を包摂している。
         しかし,分割当初明細書に記載された上記発熱体の温度範囲及び吸液芯上部の表面温度の要件は,BHT等を配合した吸液芯用殺虫液組成物についてのものであるのに対し,補正発明における上記a,bの温度範囲の要件は,BHT等の配合をしていない吸液芯用殺虫液組成物の場合も含んでいる。補正発明のこのような構成は,分割当初明細書に記載されていない構成を包含していることが明らかである。

     イ 作用効果について
         分割当初明細書には,BHT等から選ばれた少なくとも一種の化合物を配合することを特徴とする吸液芯用殺虫液組成物を採用することによって,@吸液芯の目づまりを防止し,吸液芯の長寿命化を可能とすること,A殺虫剤の蒸散性(及び揮散率)を向上させ,長時間にわたって優れた殺虫効果を持続発揮させる,との作用効果について記載されている(以下,上記@,Aの作用効果を,合わせて「本件作用効果」ということがある。)。しかし,分割当初明細書には,BHT等の添加の有無にかかわらず,吸液芯表面及び発熱体表面の温度を前記a,bの範囲内に設定することによって,本件作用効果を発揮するとの記載はない。
         これに対し,補正1に係る明細書(甲4号証の12頁〜20頁。以下「補正明細書」という。)には,補正発明について,「本発明方法は上記特定の吸液芯用殺虫液組成物を吸上式加熱蒸散型殺虫装置に利用することによって,吸液芯の目づまりを惹起せず,該芯の長寿命化を可能とすると共に,これに基づいて殺虫剤の蒸散性(揮散量及び有効揮散率)を顕著に向上でき,長時間に亘って優れた殺虫効果を持続発揮させ得る。」(段落【0008】)との記載がある。ここにいう本発明方法には,BHT等を添加しない吸液芯用殺虫液組成物を吸上式加熱蒸散型殺虫装置に利用する場合も含まれることは上記のとおりである。補正明細書は,このような殺虫液組成物を用いた場合にも本件作用効果を発揮するとしている。

         補正発明の前記a,bの温度範囲にある場合において,BHT等を配合した場合はもとより,BHT等を配合していない場合についても,本件作用効果が発揮されることが当業者に自明な技術事項であるということはできない。
         このように,分割当初明細書に記載された発明は,BHT等を添加することによって,本件作用効果を発揮させることを基本的技術思想としているのに対し,補正発明は,BHT等の配合の有無にかかわらず,本件作用効果を発揮し得ることを基本的技術思想としており,双方の発明は,本質及び実体において相違している。
     ウ 実施例について
         分割当初明細書は,第1表及び第2表(判決注・本判決添付の別表A参照)において,BHT等を配合した実施例1ないし64による殺虫液組成物と,BHT等を配合していない比較例1ないし14による殺虫液組成物との加熱蒸散時間を対比し,これによってBHT等の配合による作用効果を示している。比較例1ないし14は,本件作用効果を奏しない例として扱われている。

         これに対し,補正明細書の第1表及び第2表(本判決添付の別表B参照)においては,上記比較例1ないし14は実施例1ないし14として記載され,本件作用効果を奏する例として扱われている。
         分割当初明細書においては,比較例1ないし14については,本件作用効果を発揮しているとみることはできないとされている。それにもかかわらず,補正明細書において,これと同じものにつき,本件作用効果を発揮しているとの評価が行われるのは,作用効果に関する基準を変更したからである。
         補正明細書では,BHT等を添加せずに,プラレトリンの1wt%を沸点240〜270℃/760mmHgの脂肪族炭化水素(BD)中に溶解した殺虫剤溶液について,発熱体表面温度及び吸液芯表面温度をいろいろと設定し,10時間〜200時間の間における殺虫剤揮散量を示し,補正発明の作用効果を裏付けようとしている(甲第4号証19頁〜20頁。段落【0036】〜【0038】,第3表)(別表B参照)。

         補正明細書の第3表に記載された「本発明」(実施例)には,BHT等は配合されていないから,同実施例の構成は,分割当初明細書では,その目的効果を達成し得る構成には該当しない。補正明細書の第3表に記載された実施例は,分割当初明細書の第2表の実施例1ないし64に比べ,揮散量が200時間を経過した段階において,極めて低い値を呈しており(第2表の実施例1〜64では,3.37mg/hr〜7.62mg/hrであるのに対し,上記第3表の実施例は,1.14mg/hr及び1.07mg/hrにすぎない。),上記第2表の比較例1〜14(1.17mg/hr〜2.56mg/hrである。)と同程度にすぎない。第3表による実施例に関する記載は,分割当初明細書においては,本来の作用効果を発揮し得ないものとされ,発明の対象ではないものとされていた吸液芯用殺虫液組成物までも,補正1により,発明として包摂するに至ったことを意味している。
   (3) 以上のとおりであるから,補正1が明細書の要旨を変更するものであることは明らかである。
第4 被告の反論の要点
 1 信義則違反
     原告は,本件特許について平成12年10月10日に別件の無効審判の請求をした(無効2000−35545事件)。特許庁は,同事件について,平成13年9月13日に,同審判請求は成り立たない,との審決(乙第5号証。以下「別件審決」という。)をし,同審決は確定した。同事件においては,本件特許についての分割出願の適法性が争われ,別件審決は,本件特許に係る発明が原出願の願書に最初に添付した明細書(以下,「原出願当初明細書」という。)や本件特許の分割出願当時の原出願の明細書(以下,「原出願分割直前明細書」という。)に記載されている,などとして,分割出願は適法である,と判断し,原告の主張を斥けた。

     別件審決の上記判断には,特許法167条類似の効力が生じており,原告は,争訟手続における信義則上,本件発明が原出願当初明細書や原出願分割直前明細書に記載されていないとの主張をすることは許されないというべきである。分割当初明細書の発明の詳細な説明の記載内容は,原出願当初明細書及び原出願分割直前明細書の記載内容と実質的に同一であり,補正発明も本件発明と実質的に同一であるから,本件訴訟において,補正1が分割当初明細書に記載されておらず,要旨を変更するものであると主張することは,確定した別件審決においてなされた上記判断を実質的に争うものであって,信義則に反し許されない。
     別件審決において,分割出願が不適法であり出願日が繰り上がらないので,原出願の公開公報によって本件発明の新規性が失われているという原告の主張は認められず,同審決は確定している。本件訴訟において,補正1が要旨変更であり出願日が繰り上がらないので,原出願の公開公報(甲第3号証)によって新規性が失われたと主張するのは,主張の蒸し返しであり,許されない。

 2 要旨変更について
     補正1は,分割当初明細書の範囲内において補正をするものであるから,分割当初明細書の要旨を変更するものではない。
   (1) 分割当初明細書(甲第4号証)には,次のとおり補正1にかかる事項が記載されている。
     ア 技術背景(段落【0003】,【0004】)
         段落【0003】,【0004】には,従来,「加熱によって」殺虫液剤を構成する溶剤が速やかに揮散し,殺虫液が次第に濃縮され,樹脂化したり,吸液芯が燻焼したりして,目詰まりを起こし,引き続く殺虫液の吸い上げ蒸散を不能としていたため,長期にわたる持続効果は発揮できず,殺虫効果の経時的低下を避け得ず,有効揮散率が低く,残存率が高いといった加熱蒸散方法に見られる各種弊害の原因の一つとして,「加熱条件」が挙げられている(段落【0004】下から3行)。

     イ 発明の目的(段落【0005】)
         段落【0005】には,「本発明は吸上式加熱蒸散型殺虫装置に適した吸液芯用殺虫液組成物を提供することを目的とする。殊に,本発明は上記装置に利用して,吸液芯の目づまり等を回避し,長期にわたる持続的殺虫効果を奏し得,しかも殺虫剤総揮散量及び有効揮散率の向上を計り得る改良された殺虫液組成物を提供することを目的とする。」との記載がある。加熱蒸散方法に見られる各種弊害と,この原因としての加熱条件が発明の解決すべき課題であることは,アに記載したとおりである。発明の目的は,明白である。
     ウ 発明の構成(段落【0019】)
         段落【0019】には,発明の具体的温度の構成について「本発明組成物を上記装置に適用して殺虫を行う方法は,従来のこの種装置の利用法と同様でよく,本発明組成物が吸液芯より蒸散し得る適当な温度に吸液芯を加熱すればよい。該加熱温度は,殺虫剤の種類等に応じて適宜に決定され,特に限定されないが,通常約70〜150℃,好ましくは135〜145℃の範囲の発熱体表面温度とされ,これは吸液芯表面温度約60〜135℃,好ましくは約120〜130℃に相当する。」との記載がある。

         ここにいう「従来のこの種装置の利用法と同様でよく」とは,装置の構成が同一であり,これに通電して利用するという方法も同様であることを意味しており,発熱体・吸液芯の上記表面温度までが従来のものと同様であるとするものではない。これら表面温度は,原出願時に発明者が重要性を意識していたがゆえに記載された事項であり,現に双方の表面温度を開示する従来技術は存在しない。
         「本発明組成物を上記装置に適用して殺虫を行う方法は,・・・吸液芯より蒸散し得る適当な温度に加熱すればよい。」とは,適切な温度で加熱するということである。
     エ 発明の効果(段落【0027】〜【0034】)
         比較例1ないし14には温度による持続効果が示されている。これらの比較例は従来例ではない。吸液芯自体が蒸散しないことは自明であり,溶剤・殺虫剤は加熱によって蒸散するので,種類を替えて実験した結果が示されている。これらの比較例においては,BHT等なしの組成物で,発明の範囲内の好ましい温度で200時間の持続的な蒸散が得られている。BHT等なしの組成物について,温度による効果があることを明白に読みとることができる。

   (2) 補正発明の基本的構成について
       原告は,分割当初明細書には,補正発明の基本的構成が記載されていない,と主張する。
       しかし,補正発明の構成がすべて分割当初明細書に開示されていることは,(1)で述べたとおりである。
       ここで問題となるのは,補正発明の技術思想が発明として分割当初明細書に記載されているかどうかである。
       補正発明は,間接加熱を採用した上,吸液芯及び発熱体のそれぞれの表面温度を特定して,少なくとも200時間の殺虫剤の蒸散を持続させるという効果を得ようとするものである。
       原告は,分割当初明細書に開示されている発明は,BHT等を用いる方法であり,BHT等を用いずに加熱方法と温度条件だけで長時間の蒸散効果を得るという発明は,開示されていない,と主張する。
       しかし,分割当初明細書の第2表(別表A参照)には,比較例としてBHT等を用いていない場合が示されており,そこでは,少なくとも200時間の蒸散持続の効果を生じている。そして,BHT等を用いれば,更に400時間までもの蒸散持続の効果があることが示されている。本件出願当時としては,200時間の蒸散持続でも著しい効果といい得たのであるから,BHT等を用いて400時間蒸散持続の効果を奏する発明と,加熱温度の範囲の限定だけで少なくとも200時間蒸散持続の効果を奏する発明とが,共に開示されていたことになる。

       補正1は,出願の対象とする発明を後者の発明に限定したものであるから,何ら明細書の要旨を変更するものではない。
       要するに,分割当初明細書には,「通常約70〜150℃。好ましくは135〜145℃の範囲の発熱体表面温度とされ」との記載があり,加熱温度の範囲をこのようにすることの効果として,比較例に,少なくとも200時間までについては,相応の揮散量の確保が達成できていることが記載されている。少なくとも200時間の蒸散持続時間があるということは,本件出願当時において,十分に画期的なことであったのである。
   (3) 補正発明の作用効果について
       補正発明の作用効果は,@吸液芯の目づまり防止,A殺虫剤の蒸散性の向上である。
       分割当初明細書には,加熱温度の設定によって,少なくとも200時間という揮散量の確保ができている比較例の数表が掲記されており,これを当業者が見れば,少なくとも200時間吸液芯の目づまりを回避し,殺虫剤の蒸散性を安定持続させる効果を実現する技術思想が開示されていると理解することができる。

       原告の作用効果に関する主張は,BHT等の持続化剤の添加によって400時間程度の蒸散性の安定持続が得られることを指摘するのみで,殊更にBHT等の添加のない場合の加熱温度範囲の設定によって,少なくとも200時間の蒸散性の安定持続が得られることに目をつむったものであり,誤りである。
   (4) 実施例について
       実施例についての原告の主張に理由がないことは,上に述べたことから明らかである。
   (5) 補正の適否の判断時点について
       補正の適否の判断は,その補正のなされた時点を基準としてなされるべきである。現行特許法においては補正のできる時期及び範囲について制限がある(特許法17条の2)。しかし,補正1がなされた平成3年6月11日当時は,現在よりも広く補正が認められていた。
       すなわち,平成5年法律第26号による改正前の特許法41条は,「出願公告をすべき旨の決定の謄本の送達前に,願書に最初に添付した明細書又は図面に記載した事項の範囲内において特許請求の範囲を増加し減少し又は変更する補正は,明細書の要旨を変更しないものとみなす。」と規定していた。

       ここにいう「記載した事項の範囲内」にあるとされるためには,一字一句同じことが記載されていることまでが必要なわけではない。出願時においてその発明の属する技術分野において通常の知識を有する者(当業者)にとって明細書の記載からみて自明な事項も,「記載した事項の範囲内」に当たる。明細書の記載からみて自明な事項とは,明細書中にその事項を直接表現する記載こそないものの,明細書に記載されている技術内容をみた当業者が,客観的に判断すればその事項自体が記載してあると同様に理解する,と認められる事項のことである。
       補正1が分割当初明細書に記載した事項の範囲内でなされたものであることは,明白である。
第5 当裁判所の判断
 1 信義則違反の主張について
     被告は,原告の要旨変更の主張は,本件特許に対する別件無効審判請求事件においてなされた確定別件審決の判断を実質的に争うものであり,信義則に反し許されない,と主張する。

     乙第5号証及び弁論の全趣旨によれば,原告は,本件特許について平成12年10月10日に別件の無効審判の請求をしたこと(無効2000−35545事件),特許庁は,同事件について,平成13年9月13日に,同審判請求は成り立たない,との審決(別件審決)をし,同審決は確定したこと,同事件においては,本件特許についての分割出願の適法性が争われ,別件審決は,本件発明が原出願当初明細書や原出願分割直前明細書に記載されている,などとして,分割出願は適法である,と判断したこと,別件審決における上記争点は,本件における要旨変更についての争点と実質的に共通する内容を含むこと,が認められる。
     しかしながら,同一権利に対する無効審判請求についてなされた別件審決について審決取消訴訟を提起することなく確定させたからといって,そのことから直ちに,本件の審決(これに対する審判請求がなされたのは平成10年6月18日である。)に対する取消訴訟において,別件審決と実質的に共通する内容を含む主張をすることが信義則上許されなくなる,と解することはできない。実質的に共通する内容の主張をする場合,別件審決に係る審判請求のなされる前から行われていた審判の手続及びこれに係る取消訴訟に限定しようとすることを,信義に反するとすることが,合理的であるとは考えられないからである。

     被告は,別件審決の上記判断には,特許法167条類似の効力が生じていると主張する。しかしながら,同条項は,確定審決について同一の事実及び同一の証拠に基づいてその審判を請求することができない,と規定しているにすぎない。本件の無効審判請求は,別件審決と同一事実及び同一の証拠に基づくものではない。本件における争点は,補正1による要旨変更の有無であって,分割出願の適否ではない。両事件の争点は,実質的に共通する点を含むものの,別個であることが明らかである。別件審決について,本件訴訟との関係で特許法167条類似の効力が及ぶと解する余地はない。
     被告は,別件審決において,分割出願が不適法であり出願日が繰り上がらないので本件発明の新規性が失われている,という原告の主張が排斥されたのであるから,本件訴訟において,補正1が要旨変更であり出願日が繰り上がらないので新規性が失われた,と主張するのは,主張の蒸し返しであり,許されない,と主張する。しかしながら,別件審決は,本件特許の出願日を原出願の日に繰り下がることが出願の分割の不適法を理由に否定され,出願日が分割の行われた平成3年5月13日とされる,ということはない,としたものにすぎない。本件訴訟において問題とされているのは,本件特許の出願日が補正1が行われた平成3年6月11日に繰り下がるか否かである。両者は明らかに争点を異にする。原告の要旨変更の主張を,主張の蒸し返しとすることはできない。

     被告の主張は,採用することができない。
 2 要旨変更の主張について
   (1) 原告は,審決が,補正1は,「当初明細書に記載した事項の範囲内において特許請求の範囲を増加し減少し又は変更する補正」(平成5年法律第26号による改正前の特許法41条)に当たらないとして,補正1は,適法になされたものであり明細書の要旨を変更するものではない,と判断したのは誤りである,と主張する。
   (2) 分割当初明細書には,次の記載がある(甲第4号証1頁〜11頁)。
     ア「殺虫剤の有機溶剤溶液中に,3,5−ジ−t−ブチル−4−ヒドロキシトルエン,3−t−ブチル−4−ヒドロキシアニソール,3,5−ジ−t−ブチル−4−ヒドロキシアニソール,・・・(中略)・・・,2,4−トリメチル−1,2−ジヒドロキノリンから選ばれた少なくとも1種の化合物を配合したことを特徴とする吸液芯用殺虫液組成物」(【特許請求の範囲】【請求項1】)

     イ「【産業上の利用分野】本発明は,吸液芯用殺虫液組成物,詳しくは吸液芯利用による吸上式加熱蒸散型殺虫装置に適した改良された殺虫液組成物に関する。」(段落【0001】)
     ウ「上記固型マット使用に見られるマット取替えの問題及び短時間内に殺虫効果が消失する欠点を解消し,長期に亘り殺虫効果を持続させ得る加熱蒸散方法として,殺虫剤を溶液形態で吸上芯(吸液芯)により吸上げつつこれを加熱蒸散させる方法が考えられ,事実このような吸液芯利用による殺虫剤蒸散装置が種々提案されている。これら装置は適当な容器に殺虫剤の溶剤溶液を入れ,これをフェルト等の吸液芯を利用して吸い上げつつ該吸液芯上部より加熱蒸散させるべくしたものである。
         しかしながら,かかる吸上式加熱蒸散型殺虫装置は,実際にこれを用いた場合,いずれも吸液芯の加熱によって殺虫剤液を構成する溶剤が速やかに揮散し,該芯内部で殺虫剤液が次第に濃縮され,樹脂化したり,芯材が燻焼したりして,目づまりを起し引続く殺虫液の吸上げ及び蒸散を不能とし,長期に亘る持続効果は発揮できず,しかも殺虫効果の経時的低下を避け得ず,更に有効揮散率が低く残存率が高いものであった。このような吸上芯利用による加熱蒸散方法に見られる各種の弊害の生ずる原因としては,芯の種類及び溶剤の種類は勿論のこと,殺虫剤の種類,濃度,加熱条件等の多数が考えられ,上記弊害を解消することは困難であると考えられた。

         本発明は吸上式加熱蒸散型殺虫装置に適した吸液芯用殺虫液組成物を提供することを目的とする。殊に,本発明は上記装置に利用して,吸液芯の目づまり等を回避し,長期に亘る持続的殺虫効果を奏し得,しかも殺虫剤総揮散量及び有効揮散率の向上を計り得る改良された殺虫液組成物を提供することを目的とする。」(段落【0003】〜【0005】)
     エ 本発明は,上記問題点を解決するため,特許請求の範囲請求項1に記載の構成を採用した(段落【0006】)。
     オ「本発明の吸液芯用殺虫液組成物は,これを吸上式加熱蒸散型殺虫装置に利用することによって,吸液芯の目づまりを惹起せず,該芯の長寿命化を可能とすると共に,これに基づいて殺虫剤の蒸散性(揮散量及び有効揮散率)を顕著に向上でき,長期間に亘って優れた殺虫効果を持続発揮させ得る。」(段落【0007】)

     カ「第1図は,本発明吸液芯用殺虫液組成物を適用するに適した吸上式加熱蒸散型殺虫装置の概略図であり,該装置は吸液芯(1)を支持するための芯支持体(2)を有する殺虫剤液収容容器(3)と,上記容器内にその上部を突出して挿入された吸液芯(1)と,その上側面部を間接的に加熱するための中空円板状発熱体(4),該発熱体(4)を支持するための支持部(5)及び支持脚(6)を有する発熱体支持台(7)とから成っており,上記発熱体(4)は,これに通電して発熱させるためのコード(図示せず)を有している。」(段落【0016】,本判決添付の別紙図面参照)
     キ「本発明組成物を上記装置に適用して殺虫を行う方法は,従来のこの種装置の利用法と同様でよく,本発明組成物が吸液芯より蒸散し得る適当な温度に吸液芯を加熱すればよい。該加熱温度は,殺虫剤の種類等に応じて適宜に決定され,特に限定されないが,通常約70〜150℃,好ましくは135〜145℃の範囲の発熱体表面温度とされ,これは吸液芯表面温度約60〜135℃,好ましくは約120〜130℃に相当する。

         かくして,本発明の吸液芯用殺虫液組成物の利用によれば,吸液芯の目づまりを確実に回避して,充分な殺虫効果を奏し得る殺虫剤濃度をもって殺虫剤を長期間持続して揮散させ得る。」(段落【0019】,【0020】)
     ク「【実施例】以下本発明を更に詳しく説明するため実施例を挙げる。
       【実施例1〜64】下記第1表に示す殺虫剤No.AA〜AU,有機溶剤及び化合物CA〜CZのそれぞれを所定の配合割合で添加混合して本発明組成物(実施例No.1〜64)を得た。
         比較例1〜14
         化合物CA〜CZを添加混合しない以外は,実施例1〜64と同様にして,比較殺虫液組成物(比較1〜14)を得た。」(段落【0022】,【0023】,第1表につき別表A参照)
     ケ「上記実施例1〜64で調製した本発明組成物及び比較例1〜14で得た比較組成物の夫々50mlを,第1図に示す容器(3)に入れ,発熱体(4)に通電して吸液芯(1)の上側面部を温度135℃に加熱し,該加熱による組成物試料中の殺虫剤の蒸散試験を行なった。・・・

         組成物試料の加熱開始より10時間後,100時間後,200時間後,300時間後及び400時間後の1時間当りの殺虫剤揮散量mg/hrを求めた結果を下記第2表に示す。・・・
         上記第2表より,本発明組成物を利用する時には,殺虫剤揮散量を顕著に向上でき,しかもこの向上された揮散量を,加熱開始より400時間後も殆ど低下させることなく持続発現させ得ることが明白である。」(【0029】,【0031】,【0035】,第2表につき別表A参照)
     コ 第1,2表には,次のことが記載されている。
       a 実施例1ないし64には,BHT等の化合物が配合されているのに対し,比較例1ないし14には,BHT等の化合物が配合されていない。
       b 実施例のうち,殺虫剤の配合量が8重量%のもの(実施例9,10,26〜29,34,35,38,39,44,45,53,54,59〜63。第1表参照。)においては,一時間当りの殺虫剤揮散量(mg/hr)(以下,単に「殺虫剤揮散量」という。)は,組成物試料の加熱開始より10時間後から400時間後まで,おおむね6.5ないし7.5の範囲で推移している(第2表参照)。

           実施例のうち殺虫剤の配合量が6重量%のもの(実施例7,8,20〜25,51,52,57,58,64。第1表参照。)においては,殺虫剤揮散量は,加熱開始より10時間後から400時間後まで,おおむね5ないし5.5で推移している(実施例64だけは,おおむね6.5ないし7.5の範囲で推移している。)(第2表参照)。
           実施例のうち殺虫剤の配合量が4重量%のもの(実施例1ないし6,11ないし19,30ないし33,36,37,40ないし43,46ないし50,55,56。第1表参照)では,殺虫剤揮散量は,加熱開始より10時間後から400時間後まで,おおむね3.5前後で推移している(第2表参照)。
       c 比較例のうち殺虫剤の配合量が8重量%のもの(比較例2,4,6。第1表参照。)においては,殺虫剤揮散量は,加熱開始より10時間後では6.57ないし6.82であったものが,200時間後には2.29ないし2.55となり,400時間後にはいずれも0になっている(第2表参照)。

           比較例のうち殺虫剤の配合量が4重量%のもの(比較例1,3,5,7ないし14。第1表参照)では,殺虫剤揮散量は,加熱開始より10時間後では3.00ないし3.56であったものが,200時間後には1.17ないし2.66となり,400時間後には0ないし0.46になっている(第2表参照)。
   (3) 補正明細書には,次の記載がある(甲第4号証12頁〜20頁。下線部が補正した個所である。)。
     ア「
殺虫液中に吸液芯の一部を浸漬して該芯に殺虫液を吸液させると共に,該芯の上部を間接加熱して吸液された殺虫液を蒸散させる加熱蒸散殺虫方法において,表面温度が70〜150℃の発熱体にて上記芯の上部を表面温度が135℃以下となる温度に間接加熱することを特徴とする加熱蒸散殺虫方法。」(特許請求の範囲・請求項1)
     イ「【産業上の利用分野】本発明は加熱蒸散殺虫方法,詳しくは吸液芯利用による吸上式加熱蒸散型殺虫装置を利用した加熱蒸散殺虫方法に関する。」(段落【0001】)
     ウ「上記固型マット使用に見られるマット取替えの問題及び短時間に殺虫効果が消失する欠点を解消し,長期に亘り殺虫効果を持続させ得る加熱蒸散方法として,殺虫剤を溶液形態で吸上芯(吸液芯)により吸上げつつこれを加熱蒸散させる方法が考えられ,事実このような吸液芯利用による殺虫剤蒸散装置が種々提案されている。これら装置は適当な容器に殺虫剤の溶剤溶液を入れ,これをフェルト等の吸液芯を利用して吸い上げつつ該吸液芯上部より加熱蒸散させるべくしたものである。
         しかしながら,かかる吸上式加熱蒸散型殺虫装置は,実際にこれを用いた場合,いずれも吸液芯の加熱によって殺虫剤液を構成する溶剤が速やかに揮散し,該芯内部で殺虫剤液が次第に濃縮され,樹脂化したり,芯剤が燻焼したりして,目づまりを起し引続く殺虫液の吸上げ及び蒸散を不能とし,長期に亘る持続効果は発揮できず,しかも殺虫効果の経時的低下を避け得ず,更に有効揮散率が低く残存率が高いものであった。このような吸上芯利用による加熱蒸散方法に見られる各種の弊害の生ずる原因としては,芯の種類及び溶剤の種類は勿論のこと,殺虫剤の種類,濃度,加熱条件等の多数が考えられ,上記弊害を解消することは困難であると考えられた。

         本発明は吸上式加熱蒸散型殺虫装置利用して,吸液芯の目づまり等を回避し,長期に亘る持続的殺虫効果を奏し得,しかも殺虫剤総揮散量及び有効揮散率の向上を計り得る改良された加熱蒸散殺虫方法を提供することを目的とする。」(段落【0003】〜【0005】)
     エ「【問題点を解決するための手段】本発明
によれば,殺虫液中に吸液芯の一部を浸漬して該芯に殺虫液を吸液させると共に,該芯の上部を間接加熱して吸液された殺虫液を蒸散させる加熱蒸散殺虫方法において,表面温度が70〜150℃の発熱体にて上記芯の上部を表面温度が135℃以下となる温度に間接加熱することを特徴とする加熱蒸散殺虫方法が提供される。」(段落【0006】)
     オ 実施例に関し,第1表ないし第3表(別表B参照)には,次のことが記載されている。

       a 第1表には,実施例として,殺虫剤,化合物及び溶剤の種類等を変化させた78の例が挙げられている。同表に記載された実施例1ないし14は,分割当初明細書における第1,2表中の比較例1ないし14(別表A参照)と同じであり,BHT等が配合されていないものである。同表に記載された実施例15ないし78は,分割当初明細書における第1,2表中の実施例1ないし64と同じであり,BHT等が配合されているものである。
       b 第2表は,「上記実施例1〜
20で調整した本発明に用いられる組成物の夫々50mlを,第1図に示す容器(3)に入れ,表面温度145℃の発熱体(4)に通電して吸液芯(1)の上側面部を温度135℃に加熱し,該加熱による組成物試験を行」い(段落【0031】),「組成物試料の加熱開始より10時間後,100時間後,200時間後,300時間後及び400時間後の1時間当りの殺虫剤揮散量mg/hrを求めた結果を」示すものである(段落【0033】)。
           第2表の実施例1ないし14は,分割当初明細書における第1,2表中の比較例1ないし14と同じであり,実施例15ないし20は,分割当初明細書における第1,2表中の1ないし6と同じである。
           10時間後の殺虫剤揮散量は,殺虫剤配合割合が8重量%である実施例2,4,6のみが6.57以上を示し,殺虫剤配合割合が4重量%である実施例1,3,5,7ないし20はいずれも3.00ないし3.71を示している。
           200時間後の殺虫剤揮散量は,BHT等の化合物を配合した実施例15ないし20では3.49ないし3.68を示しているのに対し,BHT等の化合物を配合していない実施例1ないし14では1.17ないし2.66を示している。
           300時間後の殺虫剤揮散量は,BHT等の化合物を配合した実施例15ないし20では3.27ないし3.51を示しているのに対し,BHT等の化合物を配合していない実施例1ないし14では0.01ないし1.28を示している。

           400時間後の殺虫剤揮散量は,BHT等の化合物を配合した実施例15ないし20では3.08ないし3.36を示しているのに対し,BHT等の化合物を配合していない実施例1ないし14では,0ないし0.46を示している。
       c 第3表は,「
殺虫液組成物として殺虫剤プラレトリンの1wt%を有機溶剤BDに溶解して調製した組成物を用い,・・・実施例1と同様にして,第1図に示した装置と同様の装置の容器(3)内に上記組成物50mlを入れ,発熱体(4)に通電し,発熱体の表面温度と吸液芯の表面温度とが所定温度となるように種々変化させて吸液芯(1)を加熱し,該加熱による組成物中の殺虫剤の蒸散試験を行い,該加熱開始より10,150,200時間後の1時間当りの殺虫剤揮散量(mg/hr)を求め」(段落【0036】),「得られた結果を,上記試験において採用した発熱体の表面温度(℃)及び吸液芯の表面温度(℃)と共に」(段落【0037】)示したものである。
           第3表は,分割当初明細書にはなく,補正1によって加えられたものである。
           第3表において,@比較例1ないし6は,吸液芯の表面温度が補正発明の規定する範囲(135℃以下)に含まれ,発熱体温度が同発明の規定する範囲(70から150℃)に含まれないもの,A比較例7ないし9は,発熱体温度の上記要件を満たし,吸液芯の表面温度の上記要件を満たさないもの,B実施例である「本発明」2例は,発熱体温度及び吸液芯の表面温度の上記要件をいずれも満たすものである。
           第3表において,比較例1ないし6における殺虫剤揮散量は,10時間後が0.71ないし0.95,100時間後が0.64ないし0.83,200時間後が0.60ないし0.78を示している。
           比較例7ないし9における殺虫剤揮散量は,10時間後が1.49ないし1.63,100時間後が0.81ないし0.93,200時間後が0.50ないし0.60を示している。

           実施例である「本発明」2例における殺虫剤揮散量は,10時間後が1.07ないし1.15,100時間後が1.11ないし1.19,200時間後が1.07ないし1.14を示している。
           この点につき,補正明細書には,「
上記比較1〜6に示すように,吸液芯の表面温度は満足するが発熱体温度が本発明範囲を外れる場合,殺虫剤揮散量が少なすぎて有効濃度に達しないばかりか,該揮散量にバラツキの生じることが判る。また,発熱体温度は満足するが吸液芯表面温度が本発明範囲を外れる場合,比較7〜9に示すように10時間までの間は殺虫剤揮散量が多すぎ,逆に150時間までの間は殺虫剤揮散量が少なすぎ,200時間までの間はほとんど揮散していないことが判る。之等に対して,発熱体温度及び吸液芯表面温度の両者を満足する本発明の場合,素晴らしい効果が得られることが明らかである。」(段落【0039】)と記載されている。
   (4) 上に認定した分割当初明細書の記載によれば,分割当初明細書の特許請求の範囲(請求項の数は1のみである。)に係る発明は,吸液芯方式の加熱蒸散殺虫方法において,殺虫剤の有機溶剤中に,特定の化合物(BHT等)を配合することによって,400時間程度の一定期間,吸液芯の目づまりを回避して殺虫剤の蒸散性を安定持続させる効果を実現する点を特徴とする発明であるということができる。
       これに対し,上に認定した補正明細書の記載によれば,補正明細書の特許請求の範囲の請求項1に係る発明(補正発明)は,吸液芯方式の加熱蒸散殺虫方法において,発熱体と吸液芯のそれぞれの表面温度を一定の範囲内とし,これらを組み合わせることによって,殺虫剤の有機溶液中にBHT等が添加されているか否かにかかわらず,200時間程度の一定期間,吸液芯の目づまりを回避して殺虫剤の蒸散性を安定持続させる効果を実現する点を特徴とする発明であるということができる。

       上に述べたところによれば,分割当初明細書の特許請求の範囲に記載された発明と,補正発明とは,異なる発明であることが明らかである。
       しかし,本件出願当時の特許法41条(平成5年法律第26号による改正前のもの)は,「出願公告すべき旨の決定の謄本の送達前に,願書に最初に添付した明細書又は図面に記載した事項の範囲内において特許請求の範囲を減縮又は変更する補正は,明細書の要旨を変更しないものとみなす。」と規定している。
       そこで,補正1が明細書の要旨を変更するものであるか否か,すなわち,補正発明が,分割当初明細書に記載された事項の範囲内のものであるか否かについてみる。
       この点について,審決は,@分割当初明細書に記載された「吸液芯(1)を支持するための芯支持体(2)を有する殺虫剤液収容容器(3)と,上記容器内にその上部を突出して挿入された吸液芯(1)」は,殺虫剤液の中に吸液芯が一部浸漬され,その吸液芯に殺虫液が吸液されるものであるから,補正発明の「殺虫液中に吸液芯の一部を浸漬して該芯に殺虫液を吸液される」に相当すること,A分割当初明細書に記載された「その上側面部を間接的に加熱するための中空円板状加熱体」は,補正発明の「芯の上部を間接加熱して吸液された殺虫液を蒸散させる加熱蒸散殺虫方法」とするためのものであること,B分割当初明細書の「通常約70〜150℃,好ましくは135〜145℃の範囲の発熱体表面温度とされ,これは吸液芯表面温度約60〜135℃に相当する」との記載は,補正発明における「表面温度が70〜150℃の発熱体にて上記芯の上部を表面温度が135℃以下となる温度の間接加熱すること」と同じ意味であること,を理由に,分割当初明細書の記載から,上記@,Aの装置を用いてBの加熱蒸散方法を行うことは明らかである,とした。

       しかしながら,特許は,出願(具体的には,願書に添付した明細書又は図面の記載)という形で開示された発明に対し,当該発明の開示に対するいわば対価として与えられるものなのであるから,ある発明が明細書又は図面に記載されているというためには,上記対価に値するだけの明確な形で開示されていることが必要であるというべきである。そして,発明とは,技術的思想の創作のことであるから(特許法2条1項),当該発明が技術的思想としてのまとまりをもった形態で,明確に開示されていなければならないというべきである。すなわち,補正発明が分割当初明細書に記載されているというためには,分割当初明細書中に,吸液芯方式の加熱蒸散殺虫方法を行うための装置や,加熱温度についての構成が単にそれ自体として記載されているだけでは足りず,これらの記載が,他のことによってではなく,発熱体と吸液芯のそれぞれの表面温度を一定の範囲内のものとし,これらを組み合わせることによってこそ,殺虫剤の有機溶液中にBHT等が添加されているか否かにかかわらず,200時間程度の一定期間,吸液芯の目づまりを回避して殺虫剤の蒸散性を安定持続させる効果を実現する,という補正発明の技術的思想を示すものとして記載されている,と認められるものでなければならないというべきである。審決の上記説示は,単に,分割当初明細書中に補正発明の構成要件である装置や加熱温度についての記載があることを指摘するにとどまり,補正発明の上記技術的思想の有無についての判断を明確に述べることをしておらず,少なくとも理由付けとして不十分であるというほかない。
       被告は,分割当初明細書には,@吸上式加熱蒸散型殺虫装置を用いた加熱蒸散方法において,従来見られた吸液芯の目詰まり等による弊害の生ずる原因の一つとして加熱条件が挙げられていること,A加熱温度について,補正発明の加熱温度(発熱体の表面温度70〜150℃,吸液芯表面温度135℃以下)と一致する,発熱体の表面温度(通常約70〜150℃,好ましくは135〜145℃)及び吸液芯表面温度(60〜135℃,好ましくは約120℃〜130℃)が記載されていること,B比較例1ないし14として,BHT等の添加なしの組成物で,補正発明の範囲内の好ましい温度で200時間の持続的な蒸散が得られることが記載されていることを挙げ,少なくとも200時間の蒸散持続時間があるということは,本件出願当時において,十分に画期的なことであったから,分割当初明細書には,発熱体と吸液芯のそれぞれの表面温度を一定の範囲内のものとし,これらを組み合わせることによって,殺虫剤の有機溶液中にBHT等が添加されているか否かにかかわらず,200時間程度の一定期間,吸液芯の目づまりを回避して殺虫剤の蒸散性を安定持続させる効果を実現するとの発明が記載されているということができる,と主張する。
       分割当初明細書において,吸液芯を利用した加熱蒸散方法に従来見られた弊害の生ずる原因の一つとして加熱条件が挙げられていること(前記(2)ウ)加熱温度について,通常約70〜150℃,好ましくは135〜145℃の範囲の発熱体表面温度,吸液芯表面温度約60〜135℃,好ましくは約120℃〜130℃の吸液芯表面温度の記載があること(前記(2)キ)は,原告の主張するとおりである。しかしながら,上記加熱温度についての記載は,「本発明組成物を上記装置に適用して殺虫を行う方法は,従来のこの種装置の利用法と同様でよく,本発明組成物が吸液芯より蒸散し得る適当な温度範囲に吸液芯を加熱すればよい」との記載に続くものであることからすれば,殺虫剤の種類等に応じて適宜に決定され,特に限定されないものであるとの前提の下に,通常の加熱温度の範囲として記載されているにすぎないものであることが明らかである。分割当初明細書における加熱範囲についての上記記載を,殺虫剤の有機溶液中にBHT等を添加しない場合においても,記載されている各温度範囲を採用してこれらを組み合わせれば,ほかならぬそのことによって,吸液芯が目詰まり等を起こすことなく殺虫剤の蒸散性を安定持続させる作用効果を奏する,との趣旨を記載したものとみることはできない。
       被告は,分割当初明細書に記載された比較例1ないし14には,補正発明におけるのと同じ加熱温度で加熱することにより,BHT等の添加の有無にかかわらず200時間程度の一定期間,吸液芯が目詰まりを起こすことなく殺虫剤の蒸散性を安定持続させる効果を実現する発明が開示されている,と主張する。
       上に認定した分割当初明細書の記載((2)キないしコ)及び弁論の全趣旨によれば,同明細書の第2表(本判決添付の別表A参照)には,BHT等を添加した場合(実施例)と添加しない場合(比較例)のそれぞれについて,吸液芯表面温度が135℃,発熱体表面温度が約70〜150℃の範囲内で加熱した場合の殺虫剤揮散量の推移が示されていること,第2表中の実施例と比較例とを揮散量で比較すると,殺虫剤の含有量が同量の場合には,加熱開始から10時間を経過した後の揮散量はほぼ同じ水準にあること,加熱開始から200時間を経過した後の揮散量は,実施例では加熱当初からほとんど変化していないのに対し,比較例では顕著に低下していること,加熱開始から400時間を経過した後の揮散量は,実施例では加熱当初の水準から余り低下していないのに対し,比較例では0かほとんど0に近くなっていること,が認められる。そして,分割当初明細書中には,比較例における効果と,各温度範囲の特定及びその組合せとの関係についての言及は一切ない。

       このような状況の下では,分割当初明細書の第2表からは,BHT等が添加されていない比較例について,殺虫剤の有機溶液中にBHT等が添加された実施例と比較して,加熱開始から200時間を経過した以降において揮散量の顕著な低下を生じることを把握することができるにとどまるという以外にない。同表の記載から,BHT等が添加されていない比較例について,ほかのことによってではなく「表面温度が70〜150℃の発熱体にて,上記芯の上部を表面温度が60〜135℃となる温度に間接加熱する」ことによって,加熱開始から200時間経過した時点において,吸液芯の目づまりを回避して殺虫剤の蒸散性を安定持続させる作用効果を奏するものであることを把握することはできない。
       被告は,分割当初明細書に記載された第2表では実施例のみならず比較例においても,加熱開始から200時間経過後の揮散量が1(mg/hr)を上回っていることをとらえ,これを当業者が見れば,少なくとも200時間吸液芯の目づまりを回避し,殺虫剤の蒸散性を安定持続させる効果を実現する技術思想が開示されていると理解することができる,と主張する。

       しかしながら,分割当初明細書の第2表は,実施例に比して比較例の加熱開始後200時間後の揮散量が顕著に低下していることを示すにとどまるものであることは上記のとおりである(分割当初明細書中には,第2表の実施例においても比較例においても,加熱開始から200時間を経過した後の揮散量が1を上回っていることに着目し,BHT等を添加しない比較例の場合にも,200時間経過後の揮散量を一定水準に維持することができること,及び,これができるのは,表面温度が70〜150℃の発熱体で,上記芯の上部を表面温度が60〜135℃となる温度に間接加熱することによってであることについて言及した記載はない。)。このような分割当初明細書の記載状況の下では,反対に解すべき特段の事情が認められない限り,原告主張の上記技術思想が,分割当初明細書に記載されていたということはできない。
       被告主張の,少なくとも200時間の蒸散継続時間があるということは,本件出願当時において十分に画期的なことであった,ということは,上記特段の事情とはなり得ない。仮に,画期的なことであったとする被告の主張が真実であるとしても,分割当初明細書の上記記載状況の下では,その画期的な結果をもたらしたのがほかならぬ各温度範囲の特定とその組合せであると理解するのは困難であるという以外にないからである。
       他にも,本件全資料を検討しても,上記反対に解すべき特段の事情を認めることはできない。
       補正1において,発熱体及び吸液芯の表面温度を変化させて比較した新たな実施例及び比較例についての第3表とこれについての記載を加え,表面温度が70〜150℃の発熱体で,上記芯の上部を表面温度が60〜135℃となる温度に間接加熱することによって,200時間経過後の揮散量を一定水準に維持することができるとの技術思想を示したことは,分割当初明細書に記載されていなかった新たな技術的事項を明らかにする実験データを追加したものというほかない。

   (5) 上に述べたところによれば,補正発明を分割当初明細書に記載されていたものと認めることはできないことが明らかである。補正1は,分割当初明細書の要旨を変更するものである。
       本件出願は,補正1の手続補正書を提出した平成3年6月11日になされたものとみなされる。
       本件出願の出願日が原出願の日とした審決の認定は誤りであり,この誤りが審決の結論に影響を及ぼすことは明らかである。
第6 結論
     以上のとおりであるから,原告の本訴請求は,理由があることが明らかである。そこで,これを認容することとし,訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法7条,民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。

     東京高等裁判所第6民事部
     
             裁判長裁判官  山  下  和  明

               
               
                   裁判官  設  樂  隆  一
                     
                     
                   裁判官  阿  部  正  幸