H15. 9.25 東京高裁 平成14(行ケ)188 特許権 行政訴訟事件

平成14年(行ケ)第188号 特許取消決定取消請求事件
平成15年9月9日口頭弁論終結
                 判    決
       原   告     旭化成株式会社
       訴訟代理人弁理士  加々美 紀 雄
       被   告     特許庁長官 今井康夫
       指定代理人       石 井 あき子
       同         谷 口 浩 行
       同         一 色 由美子
       同         涌 井 幸 一
                 主    文
         原告の請求を棄却する。
         訴訟費用は原告の負担とする。

                 事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
 1 原告
     特許庁が異議2000−74207号事件について平成14年3月4日にした決定を取り消す。
     訴訟費用は被告の負担とする。
 2 被告
     主文と同旨。
第2 当事者間に争いのない事実
 1 特許庁における手続の経緯
     原告は,発明の名称を「燐酸エステル系難燃剤」とする特許第3043694号の特許(平成4年1月16日に出願された平成4年特許願第5742号(以下「本件原出願」という。)の分割出願として,平成9年11月27日に特許出願(以下「本件出願」という。),平成12年3月10日に特許権設定登録,以下「本件特許」といい,本件特許に係る発明を「本件発明」という。請求項の数は1である。)の特許権者である。
     本件特許について,特許異議の申立てがなされ,特許庁は,この申立てを,異議2000−74207号として審理した。原告は,この審理の過程で,本件出願の願書に添付した明細書(以下,「本件明細書」という。)について,訂正を請求した(以下「本件訂正請求」といい,その訂正を「本件訂正」という。)。特許庁は,審理の結果,平成14年3月4日に,「特許第3043694号の請求項1に係る特許を取り消す。」との決定をし,同月20日にその謄本を原告に送達した。

 2 本件出願に係る特許請求の範囲(本件発明)
   「エステル成分としてビスフェノールA残基とフェノール残基とを有し,酸価が1未満でかつ120℃の2気圧飽和水蒸気,96時間暴露時の重量増加率が20%以下であり,かつ300℃での加熱減量が5%以下であることを特徴とする燐酸エステル系難燃剤。」
 3 決定の理由
     別紙決定書の写し記載のとおりである。要するに,@本件訂正は,特許法120条の4第2項に規定する「特許請求の範囲の減縮」,「誤記又は誤訳の訂正」,「明りょうでない記載の釈明」のいずれを目的とするものとも認められないから許されない,A本件発明のうち,樹脂一般や,従来の有機リン系難燃剤が使用される樹脂や,応用例2の樹脂組成物を適用対象とする発明は,本件原出願の願書に最初に添付した明細書(以下「本件原当初明細書」という。甲第3号証参照。原出願の最初に添付した明細書一般を「原当初明細書」という。)に記載された発明でないから(判決注・本件原出願の願書には図面は添付されていない。),本件特許は,平成5年法律第26号による改正前の特許法44条1項に規定する要件を満たさず,本件特許の出願日は,現実の出願日である平成9年11月27日であり,本件発明は,その出願日前に国内において頒布された特開平5−186681号公報(本件原出願の公開特許公報。本訴甲第3号証)に記載された発明である,というものである。

第3 原告主張の決定取消事由の要点
     決定は,本件訂正の適否の判断を誤り(取消事由1),本件原当初明細書に記載された発明(以下「本件原発明」という。)の認定を誤り(取消事由2,3),その結果,本件出願が分割要件を満たしていないとの誤った判断をしたものであり,これらの誤りがそれぞれ結論に影響を及ぼすことは明らかであるから,違法として取り消されるべきである。
 1 取消事由1(本件訂正の適否の判断の誤り)
   (1) 本件訂正請求は,特許異議手続においてなされた取消理由通知中で,本件明細書に,本件原当初明細書に記載されていない事項が記載されているため,適法な分割出願とは認められない,との指摘がなされたのに対応して,特許法120条の4第2項に基づき,本件原出願明細書に記載されていない,と指摘された事項を削除しようとするものである。

       特許法第120条の4第2,3項は,明細書や図面の一部の記載に瑕疵があるため取消原因があると解されるおそれがある場合に,その一部の瑕疵があることにより権利全体が取り消される危険から特許権者を救済するため,一方で,第三者に不当に不利益な結果を招くことのないよう一定の制限を加えつつ,特許権者に明細書等を訂正する機会を与えて,その危険を回避することを許容するものである。
       このような規定の趣旨からすれば,取消理由通知において原当初明細書に記載されていない事項があることが指摘されて適法な分割出願とは認められないとされた場合に,正にその分割不適法の理由として指摘を受けた,原当初明細書に記載されていない事項を削除する訂正は,許容されるのが当然である。
   (2) 特許法第120条の4第2項に規定する訂正の目的についての要件を具備しているか否かは,訂正時の特許明細書の記載を基準に判断されるのが原則である。しかし,それは,そのときまでにされた,手続補正,訂正,あるいはその特許が分割出願である場合にはその分割出願が,すべて適法になされていることを前提としているからこそである。

       取消理由通知における認定判断が,願書に添付した明細書が分割出願の明細書であることを前提として,原当初明細書をも参照して行われた場合においては,そこに指摘された分割出願の明細書の瑕疵を取り除くべくなされた訂正請求が,特許法第120条の4第2項に規定する目的に適合するものか否かを判断する際には,当該明細書が分割出願の明細書であることを考慮して,訂正時の明細書だけでなく,原当初明細書をも参照すべきである。
       分割出願の明細書の記載中に原当初明細書には記載されていない発明が含まれているために分割要件を満たさないという場合には,分割出願の明細書の記載事項は原当初明細書の記載との関係で言えば不整合な記載事項であるということができ,かつ,その記載事項は分割出願の明細書の記載事項として記載してはならない事項を誤って記載したものともいうことができるから,訂正請求に係る訂正は,特許法第120条の4第2項2号もしくは3号に規定された「誤記の訂正」若しくは「明りょうでない記載の釈明」を目的とする訂正に該当するものとして扱われるべきである。このように扱うことにより,第三者に不測の損害を与えることもない。

   (3) 本件出願が分割要件を欠くものであるとするならば,そのことは,本来,本件出願の審査段階において特許権者(出願人)に当然通知されるべきであった。しかし,本件出願については,審査段階でそのことが看過された結果,明細書に瑕疵があるまま特許査定がなされ,設定登録に至ったことになる。このような場合に,その後の特許異議手続においてなされた取消理由通知において,瑕疵があることが指摘されたときに,特許権者がその瑕疵を取り除いて取消理由を解消する道が全く閉ざされるとするならば,それは,結果として,特許庁における審査上の過誤の責を専ら特許権者に負わせることとなり,不合理である。
 2 取消事由2(本件原発明の認定の誤りの1)
   (1) 決定は,「本件難燃剤(判決注・本件明細書の特許請求の範囲に記載された,特定の燐酸エステル系難燃剤)の発明には,樹脂一般を適用対象とする難燃剤の発明や,従来の有機リン系難燃剤が使用される樹脂を適用対象とする難燃剤の発明や,応用例2の樹脂組成物に有効な難燃剤の発明が含まれているものと認められる。しかし,原出願の最初に添付した明細書には,本件難燃剤が,樹脂一般や,従来の有機リン系難燃剤が使用される樹脂や,応用例2の樹脂組成物において有効であることは記載されていない。」(決定書2頁18行〜24行)とした。すなわち,決定は,「樹脂一般や,従来の有機リン系難燃剤が使用される樹脂や,応用例2の樹脂組成物」が,本件難燃剤すなわち本件発明を構成する難燃剤の適用対象であることが,本件原当初明細書に記載されていないことをもって,本件発明を本件原当初明細書に記載されていない発明とした。

       しかしながら,本件難燃剤それ自体は,本件原当初明細書に記載されていることが明らかである。そして,本件難燃剤それ自体は,その適用対象毎に区分し,かつその適用対象と一体化して把握される発明ではなく,それ自体として把握される発明である。
       本件発明は,このように,本件原当初明細書に,その適用対象を離れてそれ自体として開示されている本件難燃剤を出願対象としたものである。確かに,本件明細書には,本件難燃剤の使用対象についての説明とともに,本件原当書明細書に記載されていない,いくつかの具体的使用例が新たに加えられている。しかし,それは,難燃剤自体の発明である本件発明についての説明を補足する意味でなされたことにすぎず,いずれも,難燃剤自体に新たな態様を加えるものではない。本件発明の難燃剤それ自体は,本件原当初明細書に記載されていた難燃剤そのものにほかならず,これに新たな要件を付加したり,削除したりしたものではない。本件明細書作成に当たり,記載事項として,本件原当初明細書に記載のない補足的説明が追加されたからといって,そのことによって,本件明細書に記載された難燃剤が,本件原当初明細書に記載されているものと別のものとなる,などということはあり得ない。

   (2) 分割については,特許法第44条第1項に規定されているとおり,「二以上の発明を包含する特許出願の一部を一又は二以上の新たな特許出願とすることができる」のであるから,分割出願がこの要件を満足するか否かが重要なのであって,その明細書に原当初明細書に記載のない新たな事項が含まれているか否かが重要なのではない。新たな事項が含まれているからといって,直ちに前記分割の要件を満足しないことになるわけではない。
   (3) 決定の上記認定判断は,結局のところ,本件原当初明細書に本件難燃剤そのものは記載されていない,というに帰し,誤っていることが明らかである。
 3 取消事由3(原発明の認定の誤りの2)
     仮に,2の主張が認められず,本件原当初明細書に,適用対象を離れてそれ自体として把握される本件難燃剤は発明として記載されていないとしても,本件原当初明細書に接した当業者は,本件難燃剤が,樹脂一般や,従来の有機リン系難燃剤が使用される樹脂や,応用例2の樹脂組成物においても有効であることを,明文の記載がなくとも,原出願時の技術常識に照らし,当然に理解することができるというべきであるから,これらの樹脂に対して適用する難燃剤の発明も同明細書に実質的に記載されているとみるべきである。

     本件難燃剤は,新規な燐酸エステル系難燃剤である。しかし,既存の難燃剤の分類から見れば,リン化合物系に属する難燃剤である。リン化合物系難燃剤の難燃化機構は,リン化合物が熱によって分解し,ポリりん酸を生成し,この酸が揮発しにくく強酸であることから,ポリマーの燃焼時に揮発してしまうことなく,保護層を形成し,またポリりん酸がポリマーを脱水あるいは脱水素化し炭化物形成を促進して,炭化被膜を作ること,これらが酸素を遮断して燃焼反応を停止させることによるものであり,この難燃化機構は,数多くのリン化合物系難燃剤を数多くの樹脂に適用し難燃化した実験事実に基づいて導き出された,現在もっとも確からしい難燃化機構である(甲第15〜第18号証参照)。このようなリン化合物による炭化物被膜生成による難燃化機構は,どのような樹脂であっても発現されることが明らかである(甲第15号証23頁表1−10,甲第16号証35頁,甲第17号証,甲第19号証)。
     甲第15ないし第18号証で取り扱われているリン化合物系難燃剤の中で,燐酸エステルは主要な難燃剤の一つとされ(特に甲第16号証36頁表の下左欄10行〜右欄下から12行(特に13行参照),甲第17号証31頁右欄下から6行〜33頁右欄下から6行参照),ここで示されている難燃化機構に従うとされている難燃剤である。
     そもそも,難燃化機構というものは,難燃化に関する普遍的原理であるので,リン化合物系難燃剤に共通して適用できると考えられているものなのである。
     したがって,リン化合物系に属する本件難燃剤は,新規なものであっても,同様にその難燃化機構に従うものであって,特定の樹脂との組合せにより難燃化作用を発現するというものではなく,その難燃剤は,ポリフェニレンエーテルに限らず,他の従来のリン化合物系難燃剤が使用される樹脂はもとより,応用例2の樹脂組成物や樹脂一般に対しても有効であることは,当業者であれば当然に理解できるのである。

第4 被告の反論の要点
 1 取消事由1(本件訂正の適否の判断の誤り)について
   (1) 特許法第120条の4第2項によれば,訂正の要件を判断する基準となる明細書及び図面(以下,両者を併せて「基準明細書」という)は,その特許出願の願書に添付した明細書及び図面である特許明細書及び図面である。特許出願が分割出願である場合において,その原出願の願書に最初に添付した明細書及び図面である原当初明細書及び図面が基準明細書となることはない。
   (2) 原告は,本件出願が分割要件を満たしていないのならば,そのことは,本来審査段階で通知されるべきものであった,として,本件の手続の経緯や法の趣旨,目的からみて,本件訂正請求は認められるべきである,と主張する。
       しかし,審査段階で出願日の認定を誤り,本来通知すべき拒絶理由を通知しないまま,特許異議の手続の段階で取消理由が通知された結果,訂正が必要になる場合があることは,特許法が予定しているところであり,このような場合のために,特許法第120条の4が定められているのであるから,同条項の定めるところに従うべきである。

       原告は,本件訂正を認めるべき根拠として,審査段階で拒絶理由が通知されなかったこと,本件訂正請求を認めないことは特許権者にとって酷であること,本件訂正を認めても第三者に不利益はないこと,を挙げる。しかし,これらの事情は,特許法120条の4第2項該当性についての判断を左右するものではないというべきである。
       原告は,取消理由通知が,本件原当初明細書を参照して行われたのであるから,特許法第120条の4第2項の目的の判断に当たっても,本件原当初明細書が参照されなければならない,と主張する。しかし,この主張には何の根拠もない。出願日は,各種判断の基礎であるから,取消理由の有無にかかわらず認定されなければならないものである。そして,分割出願の出願日を認定するに当たって原当初明細書が参照されるのは当然のことである。出願日の認定と,訂正の要件の判断とは,全く別のことである。

       原告は,本件訂正請求を認めないことは,審査上の過誤の責を専ら特許権者に負わせるものであると主張する。しかし,分割要件を満たさないものを分割出願として出願したのは,原告である。原告の主張は,自らの責めを他に転嫁するものにほかならない。
 2 取消事由2(本件原発明の認定の誤りの1)について
     原告は,分割出願の際に,難燃剤の適用対象が新たに追加されたこと自体は認めながら,新たな適用対象の追加があっても,難燃剤それ自体の発明としては原当初明細書に変更がないから,本件出願は,分割要件を満たす,と主張する。
     しかし,難燃剤とは,他に添加されることによってこれを難燃化する剤のことであるから,難燃剤という用語自体が,適用対象の存在を表現している。適用対象が記載されていないからといって,適用対象がないわけではない。

     したがって,本件原当初明細書で難燃剤の適用対象とされていないものを適用対象として新たに追加することは,原当初明細書に記載されていた難燃剤の発明に新たな態様を追加することであり,この新たな態様の難燃剤を,本件原当初明細書に記載されたものとすることはできないのである。
 3 取消事由3(本件原発明の認定の誤りの2)について
     原告は,リン系難燃剤が樹脂一般に対して有効であること,本件難燃剤がその作用を発現するのは添加される樹脂との組合せによるものではなく,難燃剤自体の作用に基づくものであることは,原出願時における当業者の技術常識であった,と主張する。
     しかし,リン系難燃剤が樹脂一般に対して有効であるとの技術常識は存在しない。本件原当初明細書には,本件難燃剤について,その難燃化機構も,難燃剤自体の作用によって難燃作用が発現することも記載されていない。本件難燃剤は,過去に知られていた難燃剤ではないから,過去に知られていた難燃化機構によって難燃化するとは限らない。本件難燃剤の難燃化機構が原告主張のとおりであることも,本件難燃剤の作用が難燃剤自体の作用に基づくものであって,添加される樹脂との組合せによって発現するものではないということも,それに対応する技術常識も存在せず,したがって,これらを,記載がなくとも自明なこととすることはできない。

第5 当裁判所の判断
 1 取消事由1(本件訂正の適否の判断の誤り)について
   (1) 本件訂正の内容は,次のとおりである(当事者間に争いがない。)。
     ア 訂正事項1
         本件明細書段落【0026】の,
       「本発明の難燃剤は,従来の有機リン化合物系難燃剤の改良系であり,従来の有機リン系難燃剤が使用される樹脂と同様の樹脂に対して有効であるが,好ましくはポリフェニレンエーテル系樹脂,および/またはスチレン系樹脂を含む樹脂に対して用いられる。」を,
       「本発明の難燃剤は,従来の有機リン化合物系難燃剤の改良系であり,好ましくはポリフェニレンエーテル系樹脂,またはこれとスチレン系樹脂を含む樹脂に対して用いられる。」と訂正する。
     イ 訂正事項2
         本件明細書段落【0049】の,
       「【応用例2】ビスフェノールAとホスゲンから誘導された塩化メチレン中25℃の固有粘度が0.501/gである芳香族ポリカーボネート65重量部,ブタジエン上にスチレンアクリロニトリルがグラフト重合した耐衝撃性AS(ABSと略称)25部,実施例1で調製した燐酸エステル−1を10重量部,テフロンF201L(ダイキン製)0.2部,及びスミライザーGM(住友化学製のヒンダードフェノール)1部とを,押出機を用いて280℃の温度にて溶融混練して樹脂組成物を得た。該樹脂組成物の物性試験結果を表1に示す。」との記載を削除する。

     ウ 訂正事項3
         本件明細書段落【0056】の表1中,応用例2の欄を削除する。
   (2) 特許法120条の4第2項は,特許異議手続において取消理由通知を受けた特許権者は,願書に添付した明細書又は図面の訂正を請求することができること,ただし,その訂正は,@特許請求の範囲の減縮,A誤記又は誤訳の訂正,B明りょうでない記載の釈明,のいずれかを目的とするものに限ること,を規定している。
       本件特許において,同条項にいう「願書に添付した明細書又は図面」とは,訂正請求時の特許明細書である本件明細書のことであること,本件明細書の記載内容(甲第2号証参照)に照らすならば,訂正事項1ないし3は,上記@ないしBのいずれを目的とするものであるとも認めることができないことは,明らかである。
   (3) 原告は,特許法120条の4第2項の規定の趣旨に照らすと,分割要件違反を理由として指摘された事項を削除する訂正は許容されてしかるべきである,と主張する。

       いったん特許となった発明については,その対象を確定して権利の安定を保証する趣旨から,特許明細書の訂正は,むやみに許容すべきではない。他方,明細書中に瑕疵が存在する場合,その瑕疵を是正して無効理由や取消理由を除去することができるようにしなければ,特許権者に酷であり発明を適切に保護することができない。特許法120条の4第2項は,上記の相反する要請の調和の観点から,一定の事項を目的とする場合に限って特許明細書の訂正を許容することを規定したものである。このような同条項の趣旨に照らすと,特許査定がなされた後に取消理由通知を受けた場合に,取消理由を回避するための訂正が認められるためには,同条項に規定された要件を満たすことが必要であることは,明らかなことというべきである。
       原告は,本件訂正が特許法120条の4第2項に規定された目的を満たすかどうかの判断に当たっては,本件明細書が分割出願の明細書であることをも考慮して,本件原当初明細書も参照すべきであり,同明細書に記載されていない発明が本件明細書に含まれていることが分割要件に違反するとの前提に立つならば,本件明細書の記載内容は,本件原当初明細書との関係で言えば不整合な記載事項であり,かつ,その記載事項は分割出願の明細書の記載事項として記載してはならない事項を誤って記載したものであるということができるから,訂正請求に係る訂正は,特許法第120条の4第2項2号もしくは3号に規定された「誤記の訂正」若しくは「明りょうでない記載の釈明」を目的とする訂正に該当するものと扱われるべきである,と主張する。

       しかしながら,前記のとおり,特許法120条の4第2項にいう「願書に添付した明細書又は図面」とは,訂正請求時の特許明細書である本件明細書のことであると解すべきことは,条文の文理上明らかである。この規定によれば,同条項に規定する訂正の目的の要件を満たすか否かは,訂正請求時の特許明細書である本件明細書と,訂正後の明細書とを対比して判断すべきことが明らかであって,原当初明細書との関係を考慮することはできないというべきである。
       原当初明細書に記載した事項の範囲を超える内容が分割出願に含まれているか否かは,訂正の要件を満たすか否かの判断とは無関係である。
       原告は,本件訂正請求を認めないことは,結果として,本件出願の審査段階で分割要件を欠くことを看過したまま特許査定をした審査上の過誤の責を特許権者に負わせることとなり,不合理である,と主張する。

       しかしながら,本件のように,特許が登録要件を欠くことが審査段階で看過され特許査定及び設定登録がなされた後に,特許異議の手続の段階でこのことが判明し,取消理由通知がなされることがあることは,特許法が制度として当然に予定していることである。特許法が,このような場合において,審査段階で登録要件を欠くことを指摘しなかったことを理由に訂正を広く認める立場を採用していないことは,訂正の事由を一定の場合に制限した特許法120条の4第2項ただし書の規定から明らかというべきである。
       実質的にみても,このような特許権者は,登録要件を欠く出願を自らした者であるから,いったんそのまま特許査定及び設定登録を受けた以上,その後において,結果的に,審査段階で登録要件を欠くことが指摘された場合に比べて不利益な扱いを受けることになったとしても(例えば,新たに分割出願をし直すことができなくなるなど),やむを得ないというべきであって,このことを不合理ということはできない。

       原告の主張するところは,結局のところ,分割要件違反の理由として指摘された事項を削除する訂正でありさえすれば,特許法120条の4第2項に規定された目的を満たすか否かを判断するまでもなく,許容されるべきである,というに帰し,分割出願の明細書の訂正の名の下に,分割出願のやり直しを認めるべきである,というに等しいものであって,このような主張は,採用することができない。
       取消事由1は理由がない。
 2 取消事由2(本件原発明の認定の誤りの1)について
   (1) 原告は,本件難燃剤は,本件原当初明細書に,その適用対象を離れてそれ自体として記載されている発明である,と主張する。
       本件原当初明細書(甲第3号証参照)には,次の記載がある。
     ア「【請求項1】(A)ポリフェニレンエーテル系樹脂単独またはこれとスチレン系樹脂との組み合わせ及び

       (B)燐酸エステルとからなり,該燐酸エステルは酸価が1未満でかつ120℃の2気圧飽和水蒸気,96時間暴露時の重量増加率が20%以下であり,かつ300℃での加熱減量が5%以下であることを特徴とする難燃性樹脂組成物」(【特許請求の範囲】)
     イ「【産業上の利用分野】本発明は,優れた難燃性,耐熱水性,高温安定性を有し,高温成形時の発煙,金型付着物が少ないポリフェニレンエーテル系樹脂単独またはこれとスチレン系樹脂との組み合わせに,(B)酸価が1未満でかつ120℃の2気圧飽和水蒸気,96時間暴露時の重量増加率が20%以下であり,かつ300℃での加熱減量が5%以下である燐酸エステルを添加することにより,上記特性の優れた特に高い耐熱性と難燃性を要求される分野に適したポリフェニレンエーテル系樹脂組成物を得ることに関する。」(段落【0001】) 

     ウ「【従来の技術】ポリフェニレンエーテル系樹脂またはこれとスチレン系樹脂との組み合わせからなる樹脂組成物を難燃性にするためにトルフェニルホスフェート,クレジルジフェニルホスフェート,トリクレジルホスフェート,イソプロピルフェニルホスフェートなどの有機リン化合物を難燃剤として配合することが従来知られている。しかし,樹脂組成物の耐熱性,物性の低下,高温条件下における有機リン化合物の揮発,しみ出し等の欠点があった。
         上記の欠点を解決する方法として,すでに分子量の大なる有機リン化合物がポリフェニレンエーテル系樹脂の難燃剤として注目されている。これに関しては,例えば特開昭55−118957号,特開昭57−207641号,特開昭57−207642号,特開昭59−202240号,特開平2−187456号などの発明がある。

         しかしながら,商業的にはオキシ塩化リンと多価フェノール及びフェノールとから合成しているため,トリフェニルホスフェートが少量含まれ揮発,しみ出しなどの欠点を有していた。特開昭57−207641号においてはレゾンシンボリホスフェートとトリフェニルホスフェートを併用することにより相溶性を増すことも試みられている。また,特開昭59−202240号においては完全にリン酸エステルにせず,酸価を1以上にすることにより帯電防止効果を付与している。いずれの場合もポリフェニレンエーテル系樹脂を難燃化するに際し,実用特性例えば成形加工時の熱劣化や金型付着物発生や高温高湿化での加水分解によるゲル生成などの問題があった。」(段落【0002】〜【0004】
     エ「【発明が解決しようとする課題】ポリフェニレンエーテル系樹脂またはこれとスチレン系樹脂との組み合わせからなる樹脂組成物を難燃性にするために特定の有機リン系化合物を用いることにより,優れた難燃性,耐熱水性,高温安定性を有し,高温成形時の発煙,金型付着物が少ないポリフェニレンエーテル系難燃樹脂組成物を得ることにある。」(段落【0005】)

     オ「【課題を解決するための手段】本発明者らは鋭意研究の結果,ポリフェニレンエーテル系樹脂またはこれとスチレン系樹脂との組み合わせからなる樹脂組成物を難燃化するに際し,有機リン化合物難燃剤として酸価が1未満でかつ高温高湿下で重量増加が少なく且つ加熱減量が少ない特定の化合物を用いることにより,優れた難燃性,耐熱水性,高温安定性を有し,高温成形時の発煙,金型付着物が少ないポリフェニレンエーテル系難燃樹脂組成物を得ることを見いだし,本発明を完成した。
         すなわち,本発明は,(A)ポリフェニレンエーテル系樹脂単独またはこれとスチレン系樹脂との組み合わせ及び(B)燐酸エステルとからなり,該燐酸エステルは酸価が1未満でかつ120℃の2気圧飽和水蒸気,96時間暴露時の重量増加率が20%以下であり,かつ300℃での加熱減量が5%以下のものであることにより,優れた難燃性,耐熱水性,高温安定性を有し,高温成形時の発煙,金型付着物が少ないポリフェニレンエーテル系難燃樹脂組成物を提供するものである。」(段落【0006】,【0007】)

     カ 段落【0008】ないし【0011】には,本発明(原発明)のうち,(A)のポリフェニレンエーテル系樹脂についての記載が,段落【0012】ないし【0015】には,(A)のスチレン系樹脂についての記載が,段落【0016】ないし【0017】には(B)の燐酸エステルについての記載及び本発明の組成物には他の添加剤,例えば可塑剤,安定剤,紫外線吸収剤,難燃剤,着色剤,離型剤などを添加することができることの記載が,段落【0018】には,添加剤である安定剤について記載,及び,本発明を構成する各成分を混合する方法はいかなる方法でもよい旨の記載が,段落【0019】ないし【0039】には,燐酸エステルの製造例についての記載及びポリフェニレンエーテル系樹脂に製造例で調整した燐酸エステルを混合した樹脂組成物の実施例3例の物性試験結果及び比較例6例の物性試験結果について記載した表1がある。
     キ「【発明の効果】本発明の組成物は,優れた難燃性,耐熱水性,高温安定性を有し,高温成形時の発煙,金型付着物が少なく,従来の樹脂組成物では困難であった高温で且つ成形サイクルの短い成形条件でも成形できる産業上有用な物である。」(段落【0040】)
       上に認定した記載を含む本件原当初明細書の記載全体によれば,同明細書には,そこに記載された発明は,ポリフェニレンエーテル系樹脂単独又はこれとスチレン系樹脂との組合せから成る樹脂組成物を難燃性にするに当たっての従来技術の問題点を解決することを課題としていること,難燃剤として特定の有機リン系化合物を用いることにより,優れた難燃性,耐熱水性,高温安定性を有し,高温成形時の発煙,金型付着物が少ないポリフェニレンエーテル系難燃樹脂組成物の発明を得たことが記載され,実施例においても,難燃剤の適用対象としてはポリフェニレンエーテル系樹脂及びこれと組み合わせるスチレン系樹脂についての記載があるのみであること,他の樹脂についての記載は一切ないことが認められる。本件原当初明細書の上記記載状況の下では,同明細書に本件難燃剤を適用対象を離れてそれ自体として把握した発明が記載されているとすることができないことは,明らかというべきである。

       原告の主張は採用することができない。
   (2) 原告は,分割出願の明細書に,発明の要旨に直接影響しない補足的説明事項を加えることは認められており,新たな事項が含まれるからといって直ちに分割の要件を満足しないことにはならない,と主張する。
       しかしながら,上記のとおり,本件原当初明細書に,適用対象を離れてそれ自体として把握された本件難燃剤が発明として記載されているとみることはできず,そこには,特定の適用対象との関連において把握される難燃剤としての本件難燃剤しか発明として記載されていないというべきであり(明示の記載はなくとも実質的に記載されているとみることもできないことは,後記3で述べるとおりである。),適用対象につき,本件原当初明細書に記載されていないものを加えることを,発明の要旨に直接影響しないこととすることはできない。

       原告の主張は採用することができない。
   (3) 取消事由2も理由がない。
 3 取消事由3(原発明の認定の誤りの2)について
   (1) 原告は,本件原当初明細書に接した当業者は,本件難燃剤が,樹脂一般や従来の有機リン系難燃剤が使用される樹脂や,応用例2の樹脂組成物においても有効であることを,明文の記載がなくとも,本件原出願時の技術常識に照らし,当然に理解することができるから,これらの樹脂に対して適用する難燃剤の発明も本件原当初明細書に実質的に記載されているとみるべきである,と主張する。
       しかしながら,本件原当初明細書には,本件難燃剤は,特定の適用対象である樹脂との関連において記載されており,同明細書中に他の適用対象については一切記載されていないことは上記のとおりであり,このような本件原当初明細書の記載状況の下では,明文の記載がないにもかかわらず,そこに記載された難燃剤が他の樹脂にも有効であることが実質的に記載されているとみることができる,というためには,相当に明確な根拠が必要であるというべきである。

       仮に,原告が主張するように,本件原出願当時,従来公知の有機リン系難燃剤が樹脂一般に対し難燃化の点で有効であるとの技術常識があったとしても,そのことは,本件原当初明細書の上記記載状況の下で,同明細書において新規とされている難燃剤が,一般に他の樹脂に対しても同様の効果を奏することが自明であるとするに足りるものではないことが,明らかである。
       他に,原告の主張を裏付けるに足りる明確な根拠となるべき資料は,本件全証拠を検討しても見出すことができない。
       原告の主張は,採用することができない。
   (2) 取消事由3も理由がない。
第6 結論
     以上のとおりであるから,原告主張の決定取消事由はいずれも理由がなく,その他,決定にはこれを取り消すべき誤りは見当たらない。
     よって,原告の本訴請求を棄却することとし,訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法7条,民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。

     
     東京高等裁判所第6民事部
     
             裁判長裁判官  山  下  和  明
               
               
                   裁判官  設  樂  隆  一
                     
                     
                   裁判官  阿  部  正  幸