H15.12.22 東京高裁 平成13(行ケ)99 特許権 行政訴訟事件

平成13年(行ケ)第99号 審決取消請求事件(平成15年12月8日口頭弁論終結)
          判    決
  原   告     ザ ユニバーシティ オブ バージニア パテント ファウンデーション
  訴訟代理人弁理士  山 本 秀 策
  同復代理人弁理士  森 下 夏 樹
  被   告     特許庁長官  今井康夫
  指定代理人     森 田 ひとみ
  同         一 色 由美子

  同         宮 川 久 成
  同         伊 藤 三 男
          主    文
          原告の請求を棄却する。
      訴訟費用は原告の負担とする。
          この判決に対する上告及び上告受理申立てのための付加期間を30日と定める。
          事実及び理由
第1 請求
   特許庁が平成11年審判第7590号事件について平成12年10月23日にした審決を取り消す。
第2 当事者間に争いのない事実
 1 特許庁における手続の経緯
   原告は,発明の名称を「インスリン抵抗性糖尿病のための食事用補添物」とする特許出願(特願平2−504805号,1989年〔平成元年〕3月8日〔以下「本件優先日」という。〕にした米国特許出願第320,482号(以下「本件米国特許出願」という。)に基づく優先権を主張して,1990年〔平成2年〕3月8日を国際出願日とする出願,以下「本件特許出願」といい,その発明を「本願発明」という。)をしたが,平成11年1月25日に拒絶の査定を受けたので,同年5月10日,これに対する不服の審判の請求をした。

    特許庁は,同請求を平成11年審判第7590号事件として審理した上,平成12年10月23日に「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をし,その謄本は,同年11月13日,原告に送達された。
 2 本件特許出願の願書に添付した明細書(平成11年6月9日付け手続補正書による補正後のもの。以下「本件明細書」という。)の特許請求の範囲の記載
   1.インスリン抵抗性を呈するかまたはインスリン抵抗性の臨床症状の発生に遺伝的にかかりやすい個体における治療的レベルを提供するために充分な量のD−キロ−イノシトール(DCI)を含有する,インスリン抵抗性を呈する個体の処置またはインスリン抵抗性の臨床症状が遺伝的に発生しやすい個体におけるその臨床症状の発生の防止のための食事用補添物。
   2.該DCIが25〜100ミリグラムの量で存在する請求項1に記載の食事用補添物。

   3.該DCIが経口投与に適するかたちに調製されている請求項1に記載の食事用補添物。
   4.DCIが経口投与以外の投与に適するかたちに調製されている請求項2に記載の食事用補添物。
   5.(i)D−キロ−イノシトールの有効量および(A)医薬的に許容可能な担体を含有する,インスリン抵抗性を呈する個体の処置またはインスリン抵抗性の臨床症状が遺伝的に発生しやすい個体におけるその臨床症状の発生の防止のための医薬組成物。
   6.該有効量が25〜100ミリグラムである請求項5に記載の医薬組成物。
   7.経口投与に適したかたちの請求項5に記載の医薬組成物。
   8.経口投与以外の投与に適したかたちの請求項5に記載の医薬組成物。
 3 審決の理由
   審決は,別添審決謄本写し記載のとおり,本件明細書には,当業者が容易にその実施をすることができる程度に,本願発明の目的,構成及び効果が記載されているとはいえず,本件特許出願は,明細書の記載が,特許法36条3項(特許法施行令〔平成2年政令第258号〕附則2条の規定により,なおその効力を有するとされる平成2年法律第30号による改正前の特許法36条3項〔以下「旧36条3項」という。〕の趣旨と解される。)に規定する要件を満たしていないので,拒絶すべきものであるとした。

第3 原告主張の審決取消事由
 1 審決は,本件明細書には,当業者が容易にその実施をすることができる程度に,本願発明の目的,構成及び効果が記載されているとはいえないと誤って認定判断した結果,旧36条3項所定の記載要件の充足性の判断を誤った(取消事由)ものであるから,違法として取り消されるべきである。すなわち,審決は,「本願明細書(注,本件明細書,甲2)の上記(a)(注,甲2の1頁〜3頁「背景技術」の項),(b)(注,同5頁第1段落)の記載は,DCIの薬理データと同様にDCIの薬理効果を当業者に科学的に納得して理解させ得る記載とはいい難く,発明の詳細な説明の他の部分にもそのような記載は見いだせないから,本願明細書の発明の詳細な説明には,DCIの薬理データと同視すべき程度の記載がなされているとはいえない」(審決謄本5頁第6段落)と認定判断したが,本件優先日当時の技術常識と本件明細書の記載事項を併せ考えれば,当業者は,生体内のインスリンの作用機序におけるD−キロ−イノシトール(以下「DCI」という。)の後記薬理効果を理解することができたというべきであるから,誤りである(なお,本件において,旧36条3項所定の記載要件の充足性の判断は,後記判示のとおり,本件優先日当時の当業者の技術常識を参酌すべきところ,審決はこれを技術水準と表記し,当事者双方も準備書面中で同様の用語を用いているところがあるが,弁論の全趣旨に照らし,上記技術常識の趣旨であると解されるから,以下,そのように読み替える。)。
 2 取消事由(旧36条3項所定の記載要件の充足性の判断の誤り)
   (1) 本件優先日当時の技術常識の参酌
    ア 2型糖尿病とDCIの合成不能との関係
       本件明細書(甲2)の背景技術の項には,「係属中のLarner,Kennington,HuangおよびShenらの米国特許出願第07/320,484号に開示されているように,特にピルビン酸デヒドロゲナーゼの活性化および他の酵素系の阻害に関して,インスリンの活性を媒介すると思われる少なくとも二つの物質の実質的に均質にまでの精製が成された。ピルビン酸デヒドロゲナーゼ(PDH)を活性化する生物学的活性を有するインスリンメディエイタの構造分析によって,驚いたことに,このメディエイタが光学活性を有する炭水化物であるD−キロ−イノシトールを含むグリコホスファチジルイノシトールのアンカー型(anchor-type)分子からなるものであると同定された」(1頁最終段落〜2頁第1段落)との記載,すなわち,インスリンメディエイタがDCIを含む分子であると同定されたこと並びにこのインスリンメディエイタの精製及び構造分析の詳細は,原告による特許出願である米国特許出願第320,484号(以下「米国特許出願1」という。)に開示されていることについて記載があり,また,「米国特許出願第07/320,485号(発明者Larner,KenningtonおよびShen)に開示されたさらなる研究によって,非糖尿病の対照個体群に見られるレベルと対照的に,タイプK,すなわちインスリン抵抗性糖尿病(注,2型糖尿病,以下同じ。)患者においてはD−キロ−イノシトールが存在しないかまたはきわめて低いレベルで存在することが示された。例えば,糖尿病患者では約900ナノグラム/mlである。タイプK糖尿病では一貫して約200ナノグラム以下である。この違いに基づいて,尿及び他の体液中にD−キロ−イノシトールが存在するかどうかを決定するために,スクリーニング診断が確立された。D−キロ−イノシトールが存在しないことは,タイプK糖尿病の臨床的症状の発生の遺伝的要因を有することの証明,またはいくつかまたはすべての古典的な臨床的症状を示している患者におけるタイプK糖尿病の存在の確認を与える」(2頁第1段落)との記載,すなわち,タイプK(インスリン抵抗性)糖尿病と尿中DCI濃度との間に相関関係が存在すること及びこのDCIレベルの測定の詳細(測定方法および測定データ等)は,原告による特許出願である米国特許出願第07/320,485号(以下「米国特許出願2」という。)に開示されていることについて記載があり,さらに,「さらなる研究によって,インスリン抵抗性糖尿病は,事実,PDHの活性化の要因となるインスリンメディエイタにおいて不可欠な炭水化物であるD−キロ−イノシトールのインビボ合成の遺伝的不能による可能性が示された」(2頁最終段落),「充分な量の吸収可能な糖自体は,通常の食事用食品には含まれず,これではこの糖の合成不能を補うことはできない。この合成不能が,PDHの活性化の要因となるインスリンメディエイタの形成を妨げている」(4頁第2段落)との記載,すなわち,食事等からのDCIの摂取障害ではなく,DCIのインビボ合成不能によりインスリン抵抗性糖尿病(2型糖尿病)が発症することについて記載がある。
        ところで,本件優先日当時,インスリンがメディエイタを介してピルビン酸デヒドロゲナーゼ(以下「PDH」という。)を活性化し,そのことによってグルコース代謝を制御すること(Diabetes/Metabolism Reviews,Vol.1,No.3,pp229-259(1985)〔甲4〕,Science,vol.206,21,pp1407-1408(1979)〔甲5〕,The Journal of Biological Chemistry,Vol.254,No.15,pp6997-7001(1979)〔甲6〕及びAlbert L. Lehninger,Principles of Biochemistry,Worth Publishers Inc.pp123-124,325-326(1982,Fourth Printing,June 1986)〔甲7〕),インスリン刺激はインスリンメディエイタと考えられるイノシトールを含有する物質の生成を導くこと(Proc.Natl.Acad.Sci.USA,Vol.83,pp5793-5797(1986)〔甲8〕)及びインスリン抵抗性糖尿病(2型糖尿病)とインスリンメディエイタ生成の減少との間に関連性があること(甲4)が公知であった。

        本件明細書における上記の「PDHを活性化するインスリンメディエイタがD−キロ−イノシトールを含む分子からなる」及び「タイプK(インスリン抵抗性)糖尿病と尿中DCI濃度との間に相関関係が存在する」との記載は,本件優先日当時の上記の知見と矛盾するところがなく,むしろ合致するものであり,当業者は,上記記載を科学的に納得して理解する。しかも,別個に行われた研究により示された結果としての上記記載が,いずれも「(インスリン抵抗性)糖尿病」と「DCI」との関連を支持している点からも,当業者は,上記記載を科学的に納得して理解する。そして,当業者は,より詳細な理解のために必要であれば,本件明細書を読む際に,本件明細書中で出願人の知識を開示することを目的として引用された米国特許出願1及び米国特許出願2の公開された明細書を参照し得た。
        そうすると,本件明細書に開示された上記事項に,(a)吸収可能なDCI自体は通常の食事用食品には含まれていないこと,(b)インスリンが,メディエイタを介してPDHを活性化し,そのことによってグルコース代謝を制御すること,(c)インスリン刺激はインスリンメディエイタと考えられるイノシトールを含有する物質の生成を導くこと,(d)2型糖尿病とインスリンメディエイタ生成の減少との間に関連性があること,という上記公知技術を考え併せれば,「インスリン抵抗性糖尿病がDCIのインビボ合成不能による」という本件明細書の記載を,当業者は科学的に納得して理解し,必要であれば,本件優先日当時の技術常識に基づいて上記記載内容を容易に確認し得,「DCIの合成不能」は,インスリンの標的細胞である肝細胞又は筋細胞におけるDCIの存在,不存在又は存在量を決定することにより容易に確認し得,この結果を2型糖尿病患者と健常人,1型糖尿病患者との間で比較検討することによって,2型糖尿病がDCIの合成不能によることを容易に確認し得たということができる。
        したがって,本件優先日当時の技術常識を参酌すれば,当業者は,本件明細書の記載から,DCIの合成不能により2型糖尿病が発症することを科学的に納得して理解し得たというべきである。
     イ DCIの人体への吸収とインスリンメディエイタの合成の欠失の解消
        本件明細書(甲2)には,「D−キロ−イノシトールは,生体によってすぐに吸収できないかたちで非食餌の原料から入手することができる。すなわち,D−キロ−イノシトール(DCI)のメチルエステルは・・・種々のエステル化されたかたちもまた豆類から単離することができる(Schweizer,T.F.,Horman,I.,Wuersch,P.1978,J.Sci.Food Agric.,29,148-154)。しかし,充分な量の吸収可能な糖自体は,通常の食事用食品には含まれず,これではこの糖の合成不能を補うことはできない」(4頁第2段落),「適当な治療量でビタミンとして投与される場合は,この炭水化物は消化管系の壁を介して直接に吸収され,インスリンメディエイタの合成に用いられる」(3頁第3段落)との記載,すなわち,DCIのエステル体は吸収可能でないがDCI自体は吸収可能であること及びDCIが消化管系の壁を介して直接吸収されることについて記載がある。そして,DCIが消化管系を介して吸収可能であることは,DCIの光学異性体であるミオ−イノシトールが経口投与により消化管から吸収されることから容易に予測し得る。

        また,本件優先日当時,ミオ−イノシトールの吸収に関して,ミオ−イノシトールは小腸において吸収されること(Ann.Rev.Nutr,pp563-597(1986)〔甲9〕,Adv.Nutr.Rev,pp107-141(1982,4)〔甲10〕),ミオ−イノシトールの欠乏した食餌はラットの尿中の遊離ミオ−イノシトールレベルを減少させること,ヒト被験体においてミオ−イノシトールを経口補充することによって血漿ミオ−イノシトールレベルを有意に上昇させ得ること(甲9)及び0.5gのミオ−イノシトールの経口用量を1日2回,2週間投与することによって正中神経,腓腹神経及び膝窩神経それぞれの誘発活動電位の大きさを平均76%,160%,40%増加すること(同)が公知であり,したがって,経口投与されたミオ−イノシトールが吸収され,血漿ミオ−イノシトール濃度を上昇させ,更に生理学的作用をもたらすことが公知であった。そして,ミオ−イノシトールが糖尿病患者において吸収され,インスリンの投与後に血漿ミオ−イノシトールのレベルが減少することが実証され,この結果は,インスリン応答の機能として,細胞がミオ−イノシトールを取り込むことを示している(Diabetes,Vol.26,No.3,pp215-221(1977)〔甲11〕
)。さらに,ミオ−イノシトールのトランスポーターはイノシトール及びグルコースを細胞外から細胞質中に輸送する広い基質特異性を有するトランスポーターであることが公知であった(Biochem.Cell Biol.Vol.66,pp951-957(1988)〔甲12〕)。
        以上の知見に基づけば,当業者は,ミオ−イノシトールの光学異性体であるDCIも,ミオ−イノシトールと同様に小腸で吸収され,細胞に取り込まれて,生理的作用をもたらすと容易に予測し得た。甲9,10中の,糖尿病患者においてミオ−イノシトールの排泄量が増加するとの記載は,DCIがミオ−イノシトールと異なる挙動を示すことをうかがわせるものではない(東北大学医学部糖尿病代謝科講師A作成の平成13年11月7日付け鑑定書〔甲22,以下「甲22鑑定書」という。〕,昭和59年発行名大分院年報17,7頁〜14頁〔甲27〕)。

        さらに,DCIがインスリンメディエイタの合成に利用されることは,以下の理由から当業者に明らかである。インスリンメディエイタは,本件明細書(甲2)に記載のとおり,グリコホスファチジルイノシトール(GPI)のアンカー型分子から成るものである(1頁最終段落〜2頁第1段落)。ここで,ミオ−イノシトールを含むGPIのアンカー型分子のホスファチジルイノシトール(PI)部分が,ミオ−イノシトールとジアシルグリセロール誘導体から合成されることは公知であった(昭和61年3月1日東京化学同人第1版第5刷発行「生化学辞典」1178頁〔甲17〕)から,当業者は,インスリンメディエータのPI部分が,DCIとジアシルグリセロール誘導体から合成されることを当然に予測し得た。また,このように,栄養素,ビタミン又は他の化合物(本願発明においてはDCI)の全身性欠損を,患者に対して十分な量の欠損する化合物を提供して全身性不全を克服することは一般的である。例えば,低血糖症の処置のために角砂糖(グルコース)を使用すること及び重要な栄養素を提供するためにビタミンを使用することは,一般的に行われていることである。
        以上のように,本件優先日当時の技術常識に照らせば,当業者は,DCIが人体に吸収され,そしてインスリンメディエイタの合成の欠失が解消できることを,科学的に納得して理解し得たということができる。
    ウ 甲22鑑定書
       甲22鑑定書に記載のとおり,本願発明におけるDCIの投与によるインスリン抵抗性糖尿病の治療は,@経口投与されたDCIが小腸において吸収され,A吸収されたDCIが血流中に輸送され,B吸収されたDCIがインスリンメディエイタを生成する細胞に到達し,CDCIはインスリンメディエイタの合成に必須であり,かつ,吸収されたDCIがインスリンメディエイタの生成に利用され,DDCIの投与によってインスリンメディエイタの不足が解消し,その結果,インスリン抵抗性糖尿病が治癒するというステップを経ることにより,本件明細書の記載と技術常識を参酌した当業者によって科学的に納得して理解される。

     エ 帝京大学教授B作成の平成13年11月8日付け鑑定書(甲23,以下「甲23鑑定書」という。)
       甲23鑑定書に記載のとおり,@1980年代末ころまでに,ある種の糖に生理活性,特に情報伝達作用のあることが常識化し,A特に,キロイノシトールに関連するミオイノシトールが細胞内で極めて重要な情報伝達系を担うことが判明し,B同時期までのGC−MS(ガスクロマトグラフィー質量分析,以下「GC−MS」という。)の進歩と,それを駆使して独自にLarnerらが開発したキロイノシトールの測定系により,キロイノシトールが生理的に体内に存在し,更に2型糖尿病患者の体内でキロイノシトールが低下していることが確証され,Cキロイノシトールが,糖代謝で極めて重要なPDHに働くことが判明し,DこのPDHは,インスリン作用を受ける酵素であり,当時急速に普及し始めたインスリン作用の欠損からくるインスリン抵抗性の概念と結び付けられ,E糖質分野の専門家は,D−キロイノシトールが欠乏又は不足することによってインスリンメディエイタの合成が十分に行われず,その結果,インスリン抵抗性の症状が生じ,さらに,D−キロイノシトールを補うことによって,インスリン抵抗性の症状が改善され得ることを予測し得たということができる。したがって,糖質の分野に属する本願発明を理解する上で十分な知見が本件明細書中にあるということができるから,本件優先日当時の糖質研究の技術常識を考慮した当業者がDCIの薬理学的効果を理解するためには,本件明細書の記載以外の薬理データは不要である。
   (2) 米国特許出願の記載の参酌
      審決は,「この米国出願(注,米国特許出願1)は,本願優先権主張日(注,本件優先日)と同日に出願されたものであって,その内容は,本願優先権主張日当時公知になっていたものではないから,その内容を本願優先権主張日当時の技術水準(注,技術常識の趣旨と解される。)として参酌することはできない。・・・この米国出願(注,米国特許出願2)も,本願優先権主張日と同日に出願されたものであって,その内容は,本願優先権主張日当時公知になっていたものではないから,その内容を本願優先権主張日当時の技術水準として参酌することはできない」(審決謄本4頁最終段落)としたが,誤りである。本件優先日に公開されていない刊行物等は,出願人も知り得なかったはずのものであるから,当時の技術常識として参酌できないのは当然であるが,本願発明の完成に至る経緯についての出願人の知識の開示は,本件優先日当時の技術常識と同列に論じるべきではない。

      米国特許出願1,2は,本件特許出願の優先権の基礎となる本件米国特許出願と同日の特許出願であり,かつ,本件特許出願の出願人である原告による特許出願であって,本件優先日当時,原告は,本件特許出願及び米国特許出願1,2の内容を完全に理解していたから,本件明細書とともに,これら米国特許出願1,2に対応する国際公開公報又は日本国公開公報を参酌したとしても,出願人が理解できなかった発明が実施可能であったというような誤った判断がされることはあり得ず,本件優先日には未公開であったが本件特許出願の公開時には公開され,本件明細書に引用された特許出願の明細書(公開公報)を当業者が参酌することは,第三者に不利益を生じさせるものではなく,この点において,技術常識の認定に当たって出願時(優先日)に公知になっていなかった刊行物を参酌することとは全く異なる。そして,米国特許出願1の対応する国際特許出願である国際出願PCT/US90/01108号及び米国特許出願2の対応する国際特許出願である国際出願PCT/US90/01107号並びに本件出願の国際公開日が,いずれも同日の1990年(平成2年)9月20日であるから,当業者は,本件特許出願の国際公開日には,米国特許出願1,2の対応する国際公報が既に公開されており,その明細書に記載された出願番号から対応する国際出願を特定でき,その国際公報から本件特許出願の出願人である原告の知識をすべて知り得ることとなり,本願発明を理解することに何らの困難もない。
   (3) Cの1992年(平成4年)3月17日付け供述書(甲16)添付の実験データ(以下「甲16実験データ」という。)
      審決は,「明細書に薬理データ又はそれと同視すべき程度の記載をしてその用途の有用性を裏付ける必要があることは前示のとおりであるから,明細書にこれらの記載がないという記載上の不備が,出願後に提出された実験データ(注,甲16実験データ)によって解消するとすることはできない」(審決謄本5頁下から第2段落)としたが,誤りである。

      本件明細書(甲2)の記載は,本件優先日当時の技術常識に照らせば,インスリン抵抗性糖尿病に対するDCIの薬理効果を当業者に科学的に納得して理解させ得るものであり,本件特許出願後に提出された甲16実験データは,本件明細書における蓋然性の高い予測が結果的に正しかったことを確認するためのものにすぎない。東京高裁平成10年(行ケ)第393号・同13年3月13日判決(甲15)は,「上記公報(原告注,当該事件に係る特許出願の出願日後に公開された特開平2−237999号公報)のこれらの記載によれば,ここに記載のヒトBNP−26及びヒトBNP−32を合成し,その薬理作用について検討を進めたところ,ナトリウム利尿作用,すなわち,ナトリウム排出亢進活性を有することを見いだしたことが認められる。また,これらペプチドのそれぞれは,配列Aで示されるペプチド群の中の1つのペプチドであって,上記ヒトBNP−32が配列−32で示されるペプチドであることも明らかである。したがって,上記公報の記載からみれば,該ペプチド群の中の一部のペプチドについて上記活性を有することが証明されていたものということはできる」と判示し,明細書において所定の活性を有することが証明されていたかどうかの判断において,出願後の実験データを参酌することを認めており,審決の上記説示は,上記裁判例の判示に反する。
   (4) DCIの投与量の記載
     ア 審決は,「25〜100ミリグラムの範囲という投与量の記載を伴うDCIの用途が,上記実験データによって裏付けられたとはいえないし,換言すれば,本願明細書の25〜100ミリグラムの範囲というDCIの投与量の記載は,科学的根拠によって裏付けられていたものではなく,あえていえば,発明者の推測によってなされたものであるといわざるを得ない」(審決謄本6頁第1段落)としたが,誤りである。
     イ 本件明細書(甲2)のDCIの投与量の記載について,25〜100ミリグラムの範囲というDCIの投与量は,科学的根拠に裏付けられた数値であり,かつ,その後の動物実験データによってこの数値が適切であることが確認された数値である。

       動物についての投薬量は,用量/kg体重に基づいて解釈されるから,ヒトについて示唆される用量は,ラット又はアカゲザルの投薬量についての実験データから推定し得る。その後のラットによる実験において,DCI投与の効果の半値が,約2mg/kgにおいて達成され(甲16の図3),この動物データにおいて決定された半値以下の用量をヒトに適用することは,当該分野において周知であり,このラットのデータからは,120mg以下の投与量が推定されるから,本件明細書に記載された投与量である「25〜100ミリグラムの範囲」(6頁第1段落)の生理学的活性は動物実験から適切な範囲であると確認される。したがって,本件明細書の上記DCIの投与量の記載は,科学的根拠に裏付けられ,かつ,その後の動物実験データによって確認された数値であるから,DCIの薬理データと同視すべき程度の記載ということができ,このことは,甲22鑑定書の「3.6」の項(24頁)によって支持されている。
       本件明細書(甲2)には,DCIの投与量に関して,「インビボの治療有効レベルのD−キロ−イノシトールの供給のための食事用補添物のビタミン量での供給によって,この欠乏が克服される」(5頁第1段落),「この食事用補添物の必要量は,臨床的に現われるインスリン抵抗性糖尿病を予防するための,またそれらの発生因子を有する個体においては臨床症状の発生を阻止するための,適切な手段を提供するに必要なビタミンと同程度の濃度となる」(5頁最終段落〜6頁第1段落)との記載があり,DCIの投与量が,ビタミン量であると明確に記載され,「一般に,投与量は25〜100ミリグラムの範囲で,いろいろな経由で行えばよい」(6頁第1段落)との記載は,「ビタミン量」の下位概念にすぎない。DCIと化学的特徴が類似するミオ−イノシトールのヒトに対する投与量の例としては,例えば,3gの投与量及び0.5g×2回/日の投与量が報告されている(甲9の585頁)から,当業者がDCIをビタミン量投与する場合には,これらの記載に基づいて1000mg〜3000mg/日の投与量を用いると考えられる。さらに,DCIとその化学的特徴が比較的類似するビタミンCは,食事からの摂取が不十分な際の補給に,成人1日50〜2000mgを1回ないし数回に分けて,経口投与するか,あるいは皮下,筋肉内又は静脈内注射することが公知である(1991年東京廣川書店発行「第十二改正 日本薬局方解説書」C−41頁〔甲35〕)。上記ミオ−イノシトール及びビタミンCの投与量は,薬理効果を認める1200mg/日の投与量を包含するものであり,また,原告作成の平成10年12月1日付け意見書(乙5)添付の実験データ(以下「乙5実験データ」という。)及びCの宣誓供述書(甲34,以下「甲34供述書」という。)においても,ヒトへの1200mg/日の投与によって,DCIの薬理効果が確認されている。したがって,本件明細書の「ビタミン量」との記載から当業者が導き出す投与量は科学的根拠を有するものであり,実際にその投与量での薬理効果が確認されているから,本件明細書の「ビタミン量」の投与量との記載は,DCIの薬理効果と同視すべき記載に当たる。
第4 被告の反論
 1 審決の認定判断は正当であり,原告主張の取消事由は理由がない。
 2 取消事由(旧36条3項所定の記載要件の充足性の判断の誤り)について
   (1) 本件優先日当時の技術常識の参酌について
     ア 2型糖尿病とDCIの合成不能との関係について
        本件明細書(甲2)には,@PDHの活性化及び他の酵素系の阻害に関して,インスリンの活性を媒介すると思われる少なくとも二つの物質が均質にまで精製されたこと,APDHを活性化する生物学的活性を有するインスリンメディエイタの構造分析によって,DCIがインスリンメディエイタ分子中に存在すること,BDCIが2型糖尿病患者の尿中に少なく,約200ナノグラム以下であること,C2型糖尿病は,DCIのインビボ合成の遺伝的不能による可能性が示されたことが記載されているが,これらの記載は,インスリンメディエイタ及びDCIの存在や作用について出願人の知得した事項を単に記述した記載にとどまるものである。医薬発明においては,明細書に薬理データ又はそれと同視すべき程度の記載をして裏付ける必要があり,同記載を当業者が科学的に納得して理解するためには,科学的にこれら記載の内容が事実であると認識でき,かつ,追試可能な程度の内容,すなわち具体的な裏付けが必要である。しかし,上記@〜Bの記載事実は,本件優先日には公知ではなく,DCIがインスリンメディエイタ分子中に存在することが記載されているが,DCIがインスリンメディエイタ分子中に存在することは,インスリンメディエイタを分析してみてはじめて判明する事柄であるところ,インスリンメディエイタの分析方法や分析データ等,DCIがインスリンメディエイタ分子中に存在することを裏付けるに足りる分析の具体的詳細については何ら記載されていない。また,2型糖尿病患者の尿中のDCIについても,ある程度以上の人数を集めて測定しなければ,尿中のDCI濃度の違いが診断に使用できるとはいえないが,集めた患者の人数やDCIの測定法等,その具体的詳細については何ら記載されていない。原告の挙げる甲4〜8の記載は,インスリンメディエイタが複数あり,その化学構造も示唆されているだけで上記の点が明らかでないのであるから,これらを参酌しても,本件明細書の上記@〜Bの記載を科学的に納得できるものではない。さらに,上記記載Cも,どのような研究によってどのようにその可能性が示されたのかが何ら開示されていないから,単なる可能性が示されている推測の記載であって,裏付けのある記載ではない。したがって,当業者は,本件明細書に記載された糖尿病とDCIのインビボ合成能の相関関係を科学的に納得して理解するものではない。

     イ DCIの人体への吸収とインスリンメディエイタの合成の欠失の解消について
        本件明細書(甲2)には,DCIのエステル体は吸収可能ではないが,DCI自体は吸収可能であること,及びDCIが消化管系の壁を介して直接吸収されることが記載されていることは認めるが,この記載も裏付けを伴ったものではない。DCIは,ミオ−イノシトールの光学異性体であってその構造が近似しているとしても,物質としては異なる。そして,化合物の構造の少しの差違が生理作用に顕著な差を持つことも多く,必ずしも化学構造から生理作用が予測できないことは周知である。また,医薬物質は,体内で吸収されても,それで薬理作用を奏するものでなく,薬物の作用点に到達することが必要である等,薬理作用を奏するためには,多くの要因によって左右される(乙10の569頁)。したがって,DCIがミオイノシトールと似ているからといって,同じように消化管から吸収され,同じように体内で利用されると即断することはできない。

        インスリンメディエイタは,本件優先日当時の技術常識から,ミオ−イノシトールを含有するものであることが推測され(甲8,平成8年10月1日東京化学同人第2版第7刷発行「生化学辞典」136頁〜137頁〔乙1〕),かつ,甲17に,「イノシトールの九つの立体異性体のうち,ホスファチジルイノシトールに見いだされるのは現在,myo−イノシトールだけである。・・・ホスファチジルイノシトールの生合成経路はホスファチジン酸より生成したCDPジアシルグリセロールとmyo−イノシトールより生合成されることが,H.PaulusとE.P.Kennedy(1960)により明らかにされている」と記載されているように,ミオ−イノシトールとジアシルグリセロール誘導体からホスファチジルイノシトールが生合成することが周知であることが示されているから,この記載を併せれば,インスリンメディエイタのイノシトール部分がミオ−イノシトールであるホスファチジルイノシトールであるとの推測を強くするものであって,DCIがホスファチジルイノシトールの生合成に利用されることは,当業者が当然に予測できるものではない。また,本件明細書には,DCIを投与,殊に経口投与したときに,これが人体によって吸収され,インスリンメディエイタの生合成に有効に利用され,治療や予防のレベルに到達し得ることが,本件優先日当時の公知の知見に基づいて科学的に説明されるなど,DCIの投与によりインスリンメディエイタの合成の欠失を解消できることを客観的に裏付け得る記載を伴っていない。栄養素,ビタミン,又は他の化合物の全身性欠損を患者に対して十分な量の欠損する化合物を提供して全身性不全を克服することが一般的であることは認めるが,DCIについては,本件優先日当時,ヒトに対して欠損症を生ずる化合物であること,すなわち上記栄養素やビタミンと同等の作用機序が解明されてはいないから,当業者は,DCIがインスリンメディエイタの合成の欠失を解消できることを科学的に納得して理解できるものではない。また,糖尿病の臨床症状とは,血糖値の上昇が典型的なものであり,DCIにより血糖値の上昇が抑えられることを意味すると解されるが,血糖値の調節機構はまだ十分解明されておらず,本件明細書に記載のインスリンメデイエイタも仮説の域を出るものではない。したがって,DCIがPDHを活性化するインスリンメデイエイタの構成成分であることを明細書の記載から理解し得たとしても,PDHの活性化が血糖値のコントロールにどの程度寄与しているかは依然として不明であって,直ちに,これを食餌中に補添すれば生体の血糖値の低下をもたらすと確信できるものではなく,本件明細書には,文言として,DCIについて2型糖尿病との関連が記載されているが,原告の主張する技術常識を参酌しても,当業者が,DCIの医薬用途について科学的に納得して理解できる程度のものとしては記載されていない。
     ウ 甲22鑑定書について
       甲22鑑定書は,セカンドメッセンジャー説に基づいたものといえるが,鑑定書作成時である平成13年11月7日において,本件優先日(平成元年3月8日)当時にそうであったであろうと考えた結果が示されているものであり,必ずしも本件優先日当時の技術常識に基づく意見ではなく,このことは,同鑑定書中に引用されている刊行物であるJ. Basic Clin.Physiol.Pharmacol.1998;9(2-4):127-37(甲37),The Japanese Journal of Pharmacology,Vol.64,No.Suppl.1,1994,p.289(甲36)及び Proc.Natl.Acad.Sci.USA Vol.91,p1942-1945(1994)(甲38)が,いずれも本件優先日以後のものであること,及び本件優先日当時の技術常識からも明らかである。

     エ 甲23鑑定書について
       甲23鑑定書の骨子は,甲22鑑定書とほとんど同旨であるから,上記同様,信頼性がないものである。
  (2) 米国特許出願の記載の参酌について
      明細書を理解する上での技術常識とは,当該特許出願の出願日又は優先権主張日当時,当業者が容易に実施できる程度,すなわち,当業者が当該発明を明細書の記載に基づいて特殊な知識を付加しなくても再現できる程度の一般的に知られている技術又は経験則から明らかなものをいう。明細書は,技術文献としての役割を持つものであるから,発明者が理解できれば足りるものではなく,当業者が明細書を読んで,そこに記載されている発明を理解できることが必要である。当業者であれば出願日ないし優先権主張日当時の技術常識を理解しているから,技術常識を参酌するのは当然であるが,技術常識とはいえない出願日後ないし優先権主張日後に公知となった技術内容を参酌しなければ理解できないものは,当業者が容易に実施できる程度に記載されているとはいえない。したがって,本件明細書に記載されている米国特許出願番号から,本件出願後に発行された対応する特許出願に係る公報を入手して,そこに記載の事項を参酌する必要はない。

      公開された公開公報等の刊行物から当該出願番号を知ることは可能であるにしても,本件明細書(甲2)には,米国特許出願番号のみが記載され,国際出願番号は記載されておらず,国際公開公報の番号も記載されていないのであるから,これらの番号を第三者は知り得ず,入手できない。
   (3) 甲16実験データについて
      医薬発明等,化合物の薬理作用を利用する発明につき特許を受けることができる発明としては,化学構造だけからその薬理作用を予測することが困難であることから,単に推測しただけでは足りず,その薬理作用を現実に確認することが必要である。したがって,医薬発明等は薬理試験等で現実にその薬理作用を確認して初めて科学的に理解できるものといえる。そして,本件明細書(甲2)には,医薬発明に相当する本願発明について当業者が科学的に理解できる根拠となるべき薬理データが全くないのであるから,出願後の甲16実験データを参酌することは,明細書に参酌の基礎となるべき記載がないものについて参酌することになり,許されない。したがって,薬理データ又はそれと同視すべき記載が全くない医薬発明について,出願後の薬理データを参酌することは許されない。原告が引用する東京高裁平成10年(行ケ)第393号・同13年3月13日判決(甲15)が,出願後の実験データを参酌しているのは,発明の一部を他の出願(出願後のデータ)の記載事項を援用して活性を認めたとしても,全体としては発明は未完成であるとして,発明の一部について参酌しているものであって,発明全体を裏付けるものについてまで出願後の実験データを参酌しているものではない。
   (4) DCIの投与量の記載について
      本件明細書(甲2)には,投与量として25〜100ミリグラムと記載されているにとどまり,この投与量が,体重当りであるか,成人当りであるか,又は1回当たりであるかは,全く不明である。乙5実験データには,ヒトに対してDCIを300〜1200mg又は1200mg/日を7日から14日間投与した結果を示しているが,これは明細書の記載の投与量とは異なるものであり,また,甲16実験データでは,ラット及びアカゲザルで実験を行っているが,よりヒトに近い種であるアカゲザルの経口投与に相当する胃内投与では,1000mg/kg体重で効果を確認しており,成人の体重を60kgとしてもこれは60000mgとなり,明細書の記載の投与量とは全く異なる。そして,原告は,動物データにおいて決定された半値以下の用量をヒトに適用することが周知であると主張しているが,このことが周知であるとは認められない。したがって,本件明細書の投与量に一定の意味があると解した場合であっても,その量を採用すべき科学的根拠は示されておらず,乙5実験データ及び甲16実験データは,むしろその量が推測による値であることを強く示唆するものであるから,この投与量が薬理データと同視すべき記載に当たるとは到底いえない。
第5 当裁判所の判断
 1 取消事由(旧36条3項所定の記載要件の充足性の判断の誤り)について
   (1) 医薬発明に係る特許出願の明細書と旧36条3項所定の記載要件
      審決は,「医薬についての用途発明においては,一般に,有効成分の物質名,化学構造だけからその有用性を予測することは困難であり,明細書に有効量,投与方法,製剤化のための事項がある程度記載されている場合であっても,それだけでは当業者が当該医薬が実際にその用途において有用性があるか否かを知ることができないから,明細書に薬理データ又はそれと同視すべき程度の記載をしてその用途の有用性を裏付ける必要があり,それがなされていない発明の詳細な説明の記載は,特許法第36条第3項(注,旧36条3項)に規定する要件を満たさない」(審決謄本2頁下から第2段落)と説示した上,本件明細書(甲2)の記載についてその充足性を検討しているところ,この判断枠組みは,首肯し得るところであり,原告も一般論としてはこれを認めている。そして,明細書における薬理データと同視すべき程度の記載とは,当業者が医薬用途があるとする化学物質がどのような薬効を有しているかを理解し,どのように使用すれば目的とする薬効が得られるかを理解することのできるような記載であり,当業者がこのように明細書の記載を理解するために利用することのできるものは,出願時(優先権主張日当時)の当業者が有する技術常識である。
   (2) 本件優先日当時の技術常識の参酌について
     ア 2型糖尿病とDCIの合成不能との関係について
       原告は,本件優先日当時の技術常識を参酌すれば,当業者は,本件明細書の記載から,DCIの合成不能により2型糖尿病が発症することを科学的に納得して理解し得たと主張する。
       本件明細書(甲2)には,@PDHの活性化及び他の酵素系の阻害に関して,インスリンの活性を媒介すると思われる少なくとも二つの物質が均質にまで精製されたこと(1頁最終段落),APDHを活性化する生物学的活性を有するインスリンメディエイタの構造分析によって,DCIがインスリンメディエイタ分子中に存在すること(1頁最終段落〜2頁第1段落),BDCIが2型糖尿病患者の尿中に少なく,約200ナノグラム/ml以下であること(2頁第1段落),C2型糖尿病は,DCIのインビボ合成の遺伝的不能による可能性が示されたこと(同頁最終段落),D通常の食事用食品には,十分な量の吸収可能なDCIは含まれていないため,その合成不能を補うことはできず,この合成不能が,PDHの活性化の要因となるインスリンメディエイタの形成を妨げていること(同段落〜4頁第2段落)が記載されているが,上記記載@,Aについて,インスリンとグルコースの代謝を関係付けるPDHを活性化するインスリンメディエイタの構造分析について,その生成方法,分離方法や分析結果の詳細等の開示はなく,上記記載Bについて,2型糖尿病患者の尿中のDCI量についても,糖尿病でない正常な人のDCI量を明らかにしていないし,どのような条件で行った測定であるのか,その測定の詳細も明らかではなく,上記記載Cについても,その推論の単なる提示がされているにすぎず,どのような研究によったのか明らかではなく,その推論を裏付ける実験結果も開示されていない。
       この点について,原告は,本件明細書に開示された上記事項に,(a)吸収可能なDCI自体は通常の食事用食品には含まれていないこと,(b)インスリンが,メディエイタを介してPDHを活性化し,そのことによってグルコース代謝を制御すること,(c)インスリン刺激はインスリンメディエイタと考えられるイノシトールを含有する物質の生成を導くこと,(d)2型糖尿病とインスリンメディエイタ生成の減少との間に関連性があること,という公知技術を考え併せれば,「インスリン抵抗性糖尿病がDCIのインビボ合成不能による」という本件明細書の記載を,当業者は科学的に納得して理解し,必要であれば,本件優先日当時の技術常識に基づいて上記記載内容を容易に確認し得,「DCIの合成不能」は,インスリンの標的細胞である肝細胞又は筋細胞におけるDCIの存在,不存在又は存在量を決定することにより容易に確認し得,この結果を2型糖尿病患者と健常人,1型糖尿病患者との間で比較検討することによって,2型糖尿病がDCIの合成不能によることを容易に確認し得たということができると主張し,上記公知技術の証拠として,米国特許出願1,2,甲4〜8を挙げる。

       しかしながら,米国特許出願1,2は,本件優先日に出願されたものであって,本件優先日当時に公知となっていたものではないから,その内容を技術常識として参酌することはできない。
       また,甲4には,「感受性細胞の表面上のインスリンレセプターとのインスリンの相互作用によって,合成および/または放出が増強される低分子量物質のファミリーが注目されている」(原告提出の訳文1頁最終段落)との記載があり,インスリンメディエイタはファミリーを形成する複数種の化学物質から成るものであることの開示はあるが,同記載は,インスリンメディエイタファミリーに属するものの中にPDHを活性化し得る低分子量の物質があることを推測しているにすぎない。また,甲4の「絶食,薬理学的濃度のグルココルチコイドでの処理,および特定の形態の糖尿病の全て,インスリン抵抗性を惹起する。これらの全ては,インスリンメディエイタの生成の減少と関連している」(同2頁)との記載は,インスリンメディエイタファミリーに属するインスリンメディエイタについて記載されているのであって,PDHを活性化し得る物質についてのみ述べているものではない。そして,甲4には,「本節は,前の議論でしばしば示唆した,インスリンが,その作用の多くを仲介する関連化合物のファミリを生成することの証拠について要約する。インスリンが刺激及び阻害メディエイタの両者の生成を誘発するという間接的な証拠は,2種類の実験によって与えられた。最初に,メディエイタ生成に関するインスリンまたはインスリン模倣剤の用量−反応曲線は,細胞膜を用いてメディエイタを生成した場合は,二相性であった。第2に,PDH,アセチルCoAカルボキシラーゼ及びグルコース−6−ホスファターゼの分析において,膜上澄画分の希釈曲線も二相性であった。Larner他も,cAMP依存性プロテインキナーゼにおいて骨格筋によるインスリン依存性メディエイタによって二相性の用量−反応曲線が生成されたことを示した。メディエイタの用量−反応実験は,低濃度では阻害活性よりも,刺激メディエイタが活性化されているか,より低い濃度で刺激メディエイタがさらに生成/放出されるが,高濃度ではさらに多くの阻害メディエイタが生成されることを示唆した。複数のメディエイタのインスリン促進生成は,生物的及び生物理学的手段の両者によってさらに直接的に証明されている。Cheng他は,阻害メディエイタ活性から刺激メディエイタ活性を分離することを最初に報告した。彼らは,部分的に生成したメディエイタ調製物を高電圧ペーパー電気泳動によって2つの領域に分画した。1つの領域の活性はcAMP依存性プロテインキナーゼを阻害し,グリコーゲン合成酵素ホスファターゼを刺激したが,もう一方の領域の活性は反対の効果を備えていた。Larnerの研究室は最近,cAMP依存性プロテインキナーゼ阻害メディエイタ及びPDH刺激メディエイタの両者の調製について報告した。さらに彼らは,アデニル酸シクラーゼ阻害及びグリコーゲン合成酵素リンタンパク質ホスファターゼ刺激メディエイタ活性を,PDH及びプロテインキナーゼメディエイタからSephadex G−25カラムを用いたゲル濾過によって分離できることを報告した」(被告提出の訳文1頁),「肝臓癌細胞は,少なくとも4種類の生理的に識別可能なインスリンメディエイタ活性:低KmcAMPホスホジエステラーゼ刺激,アデニル酸シクラーゼ阻害,及びPDH刺激ならびに阻害メディエイタを生成する」(同2頁第1段落),「AmatrudaならびにChang及びTrowbridge他は,対照肝臓よりも,断食したラットによる肝臓の微粒子画分から少ないPDH刺激メディエイタ活性が放出されることを示した。再給餌によって,メディエイタ放出は対照レベルに回復した。Macaulay他は,72時間絶食させたインスリン処理ラットの心筋によるPDH及びアデニル酸シクラーゼ調節活性の回復が,対照(24時間絶食)ラットによる収量と比較して低下したことも示した。膜によるPDH刺激及び阻害活性の両方の放出は,ドナー動物をデキサメタゾンによって前処理することによって弱められる。この結果は,このホルモンが生体内でのインスリン耐性を誘発する能力と一致している。しかし,このことは,デキサメタゾンの培養肝臓癌細胞に対する効果と鋭い対照をなしている。その系では,ホルモンへの曝露によって,細胞は,PDH刺激メディエイタを生成する能力を低下させずに,インスリンに反応してPDH阻害メディエイタを発生することができる。このような矛盾した結果の理由は,メディエイタ生成/作用の機構が解明されるまで説明されないだろう。AmatrudaおよびChangは,ラットのストレプトゾシン誘発糖尿病が,肝臓膜から放出されたPDH刺激メディエイタ活性の量を減少させることを示した。糖尿病ラットを治療濃度のインスリンによって処理すると,メディエイタ生成が対照レベルまで回復した。インスリンメディエイタの生成または作用が,インスリンに対する供給源の反応性に一致する方向で,メディエイタ供給源の生理的または病理学的状態に影響されるという観察結果は,これらの物質がインスリン効果の仲介及び代謝の調節において重要な役割を果たすことを強力に証明している」(同2頁第2段落〜3頁第1段落)と記載され,インスリンメディエイタには,インスリン刺激メディエイタ,インスリン阻害メディエイタ,あるいは,肝臓癌細胞では4種類のインスリンメディエイタが存在し,これらのメディエイタはcAMP依存性プロテインキナーゼ阻害活性,グリコーゲン合成酵素ホスファターゼ刺激活性,PDH刺激活性,アデニル酸シクラーゼ調節活性等を有するとされていることから,インスリンメディエイタの持つ活性が,PDH活性についてのみに限定されているのでないことは明らかである。
       甲5には,インスリン処理筋肉から単離された因子が,インスリンメディエイタに相当し,ピルビン酸デヒドロゲナーゼ活性を持つことが記載されているが,インスリンメディエイタが物質として何であるかの同定はされていない。

       甲6には,インスリンと細胞膜レセプターとの相互作用によりセカンドメッセンジャーの生成の可能性を示唆しているにすぎない。
       甲7には,インスリンとレセプターの関係が記載されているが,原告主張に係る「インスリンがメディエイタを介してピルビン酸デヒドロゲナーゼを活性化し,そのことによってグルコース代謝を制御する」ことは記載されていない。
       甲8には,「細胞膜レセプターへのインスリン結合は,特定の標的酵素に対して,このホルモン作用を急速に模倣する物質の生成を生じる。・・・インスリンによる膜からのこの物質の生成は,Staphylococcus aureusより精製されたホスファチジルイノシトール−特異的ホスホリパーゼCの添加によって再現され得る。・・・これらの物質は,グリコサミンおよびイノシトールを含有する関連する複合糖質リン酸基質のようである」(訳文)と記載され,ホルモン作用を模倣する物質はインスリンメディエイタに相当し,イノシトールを含有する複合糖質リン酸基質のようであると示唆するが,この物質がPDHの活性化作用を有するメディエイタであること及びイノシトールを含有する物質であると確認されたこと,それがDCIであることは記載されていない。加えて,イノシトールには9個の異性体が存在するから,どのイノシトールであるかが特定できない上,本件優先日当時,イノシトールはミオ−イノシトールを意味していた(乙1)から,この物質がPDH活性化作用を有するイノシトールを含有する物質であったとしても,甲8に接した当業者は,この物質はミオ−イノシトールを含有するものと理解するというべきである。
       したがって,甲4〜8の記載は,インスリンメディエイタが複数存在することを示していても,その化学構造が示唆されているだけでPDHの活性化作用を有することは明らかでないのであるから,これらを参酌しても,本件明細書の上記記載@〜Bから,PDHの活性化作用と2型糖尿病の因果関係が本件優先日当時明らかであったとはいえず,DCIの2型糖尿病に対する治療や予防の効果が当然に得られるものとして科学的に当業者が理解するということはできない。
     イ DCIの人体への吸収とインスリンメディエイタの合成の欠失の解消について
       原告は,本件優先日当時の技術常識に照らせば,当業者は,DCIが人体に吸収され,そしてインスリンメディエイタの合成の欠失を解消できることを,科学的に納得して理解し得たということができると主張する。

       確かに,本件明細書(甲2)には,原告が主張するように,@DCIのエステル体は生体によって吸収可能ではないが,DCI自体は吸収可能であること(4頁第2段落),ADCIが消化管系の壁を介して直接吸収されること(3頁第3段落)が記載されているが,上記各記載を裏付ける薬理データ又はそれと同視すべき程度の記載はない。この点について,原告は,甲9〜12に記載された公知の知見に基づけば,当業者は,ミオ−イノシトールの光学異性体であるDCIも,ミオ−イノシトールと同様に小腸で吸収され,細胞に取り込まれて,生理的作用をもたらすと容易に予測し得,さらに,甲17に記載された公知の知見から,当業者は,インスリンメディエイタのPI部分が,DCIとジアシルグリセロール誘導体から合成されると当然に予測し得,また,このように栄養素,ビタミン又は他の化合物(本願発明においてはDCI)の全身性欠損を,患者に対して十分な量の欠損する化合物を提供して全身性不全を克服することは一般的であるから,本件優先日当時の技術常識に照らせば,当業者は,DCIが人体に吸収され,そしてインスリンメディエイタの合成の欠失を解消できることを,科学的に納得して理解し得たということができると主張する。
       しかしながら,甲9には,イノシトールが小腸より吸収されることの記載とともに,「ヒト糖尿病において観察されるイノシトール尿は,イノシトールの尿細管再吸収に対するグルコースの阻害的効果により生じ得る」(訳文下から第2段落)ことも明らかにし,また,甲10においても,糖尿病患者においてミオ−イノシトールの排出量が増加することが記載され(原告の自認するところである。),これらの知見によれば,糖尿病患者の尿中には,糖尿病でないヒトより多くのミオ−イノシトールが存在するのであるから,ミオ−イノシトールとDCIが極めて近い化合物であるとはいえ,DCIは糖尿病患者の尿中には存在しないか糖尿病でないヒトに比べ極めて少ないレベルで存在するという知見は,DCIが生体内においてミオ−イノシトールとは異なる挙動を示す化合物であることを認識させるというべきである。原告は,甲22鑑定書,甲27を挙げ,甲9,10中の,糖尿病患者においてミオ−イノシトールの排泄量が増加するとの記載は,DCIがミオ−イノシトールと異なる挙動を示すことをうかがわせるものではないと主張する。しかしながら,甲22鑑定書が採用できないことは,後記のとおりであり,甲27の11頁には,正常者の血中にはミオ−イノシトールしか検出されなかったが,慢性腎不全患者血中にはキロ−イノシトールなどが検出されたこと,及び慢性腎不全患者では尿中のキロ−イノシトールが正常者より増加すると記載されているのであって,甲22鑑定書及び甲27は,原告の上記主張の根拠とはなり得ない。
       また,甲11,12は,その体裁及び内容から,いずれも研究者がその研究内容を報告する報文ないし速報であると認められ,そこに記載された内容が,本件優先日当時の当業者の技術常識であるということはできないから,それらの記載内容を参酌して本件明細書の記載を理解すべきであるとする原告の主張は,その前提において誤りである。
       甲17には,「イノシトールの九つの立体異性体のうち,ホスファチジルイノシトールに見いだされるのは現在,myo-イノシトールだけである。・・・ホスファチジルイノシトールの生合成経路はホスファチジン酸より生成したCDPジアシルグリセロールとmyo-イノシトールより生合成されることが,H.PaulusとE.P.Kennedy(1960)により明らかにされている」(右欄第1段落)と記載され,ミオ−イノシトールとジアシルグリセロール誘導体からホスファチジルイノシトールが生合成することが周知であることが示されているのであるから,この記載を併せれば,インスリンメディエイタのイノシトール部分がミオ−イノシトールであるホスファチジルイノシトールであるとの推測をさせるものであって,原告主張のように,当業者が,DCIがホスファチジルイノシトールの生合成に利用されると当然に予測できるものということはできない。

       他方,昭和59年発行「月刊薬事」26巻1号71頁〜76頁(乙9),昭和47年2月1日南山堂第14版発行高木敬次郎外著「薬物学」335頁〜337頁(乙10)には,アミノ酸の一種であるメチオニンはD−体でも生体内でL−体に変化して有効であるが,同じアミノ酸であるリジンはL−型のみが有効でD−型は腸管よりの吸収が悪く,またD→Lの変換も起こり得ないものであることが記載され,上記「薬理学」568頁〜571頁には,医薬物質は体内で吸収されても,それで薬理作用を奏するものでなく,薬物の作用点に到達することが必要である等,薬理作用を奏するためには多くの要因によって左右されるのであることが記載され,これらの記載によれば,化合物の構造の少しの差違が生理作用に顕著な差を持つことも多く,必ずしも化学構造から生理作用が予測できないことは当業者に周知であったと認められるから,DCIは,ミオ−イノシトールの光学異性体であってその構造が近似しているからといって,物質としては異なるから,当業者は,DCIがミオイノシトールと似ているとしても,同じように消化管から吸収され,同じように体内で利用されるものと理解するということはできない。

     ウ 甲22鑑定書について
       甲22鑑定書は,「2.結論:特許出願平成2年第504805号の明細書の記載及び1989年3月8日当時の技術常識に基づけば,当業者は,食事用補添物に含有されたDCIが体内に吸収され,インスリン抵抗性糖尿病を処置または予防できることを,科学的に納得して理解できました。3.理由:・・・本願優先日当時の技術常識を理解した当業者が本願明細書を読んだ場合,『インスリン抵抗性糖尿病患者の尿中のDCIの量が少ないという記載,およびピルビン酸デヒドロゲナーゼを活性化するインスリンメディエイタがDCIを含有するという記載から,DCIを投与すれば,インスリン抵抗性糖尿病が治癒できること,』を理解し,その結果,DCIの薬理効果を科学的に納得して理解します。・・・DCIの投与によるインスリン抵抗性糖尿病の治療は,具体的には,@経口投与されたDCIが小腸において吸収される A吸収されたDCIが血液中に輸送される B吸収されたDCIがインスリンメディエイタを生成する細胞に到達する CDCIはインスリンメディエイタの合成に必須であり,かつ吸収されたDCIがインスリンメディエイタの生成に利用される DDCIの投与によってインスリンメディエイタの不足が解消し,その結果,インスリン抵抗性糖尿病が治癒する というステップを経るものであると考えられます」(2頁〜3頁)と記載し,続いて本件明細書の記載と技術常識を参酌した当業者によって科学的に納得して理解される理由を具体的に述べるものである。
       ところで,インスリンによる糖代謝の作用機序に関しては,セカンドメッセンジャー説が提唱されていたところ,同説は,@PI−PLC(フォスファチジルイノシトール−ホスホリパーゼC)がグリコホスファチジルイノシトールのアンカー型分子を切断し,Aその切断によって,イノシトールグリカン(IG)及び1,2−ジアシルグリセロール(DAG)を生成し,Bこれらイノシトールグリカン及び1,2−ジアシルグリセロールがセカンドメッセンジャーとして作用し,Cこれらセカンドメッセンジャーのうちでイノシトールグリカンが,PDHホスファターゼを介してPDHを活性化する,というものである。甲22鑑定書の上記記載は,このセカンドメッセンジャー説に基づいたものといえるが,甲22鑑定書に引用された刊行物である甲36〜38は,いずれも本件優先日以後のものである上,同じく本件優先日より後に頒布された刊行物である平成2年発行「日本臨床」48巻・1990年増刊号84頁〜89頁(乙12),平成3年3月30日発行「医学のあゆみ」156巻13号888頁〜891頁(乙13)によれば,平成2年〜3年当時においても,セカンドメッセンジャー説は,いまだ一つの仮説の域を出るものではなく,本件優先日当時の当業者の技術常識であったと認めることはできない。甲54,71も上記判断を左右するものではない。
     エ 甲23鑑定書について
        甲23鑑定書は,そこで参酌された技術が,本件優先日当時に公知のものであるか否かの区別をしないまま記載されている上,本件明細書(甲2)の具体的記載と結論に至るそれぞれの理由との関係も明確にされていないものであり,採用することができない。
   (3) 米国特許出願の記載の参酌について
      原告は,米国特許出願1,2は,本件特許出願の優先権の基礎となる本件米国特許出願と同日の特許出願であり,かつ,本件特許出願の出願人である原告による特許出願であって,本件優先日当時,原告は,本件特許出願及び米国特許出願1,2の内容を完全に理解していたから,本件明細書とともに,これら米国特許出願1,2に対応する国際公開公報又は日本国公開公報を参酌したとしても,第三者に不利益を生じさせるものではないから,これを参酌すべきであると主張する。

      しかしながら,明細書の記載要件の判断は,上記のとおり,特許出願時(本件においては優先日当時)の技術常識を参酌して行われるものであり,その技術常識は,当該発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者(当業者)の技術的知識をいい,本件特許出願の出願人の有していた知識をいうものと解することはできないから,原告の上記主張は,失当というほかない。
   (4) 甲16実験データについて
      原告は,本件特許出願後に提出された甲16実験データは,本件明細書(甲2)における蓋然性の高い予測が結果的に正しかったことを確認するためのものにすぎないから,それを採用しなかった審決は誤りであり,東京高裁平成10年(行ケ)第393号・同13年3月13日判決(甲15)の判示に反すると主張する。
      しかしながら,原告の主張する本件明細書における予測とは,本件明細書のDCIの薬理データに代わる記載に基づくものと認められるところ,たとえその予測が正しかったことが当業者に理解できるとしても,本件明細書の記載及び本件優先日当時の技術常識から,生体内のインスリンの作用機序におけるDCIの薬理効果の予測を理解できないことは上記のとおりであるから,原告の主張は,失当である。原告が引用する上記東京高裁判決は,出願後の実験データを参酌しても,結局,当該発明が完成されたものと認めることはできないと判断しているものであるから,原告の主張に沿うものということはできない。

   (5) DCIの投与量の記載について
      原告は,本件明細書(甲2)のDCIの投与量の記載について,25〜100ミリグラムの範囲というDCIの投与量は,科学的根拠に裏付けられた数値であり,かつ,その後の動物実験データによってこの数値が適切であることが確認された数値であると主張する。
      本件明細書(甲2)に,DCIの投与量の具体的な数値として記載があるのは,「一般に,投与量は25〜100ミリグラムの範囲で,いろいろな経由で行えばよい」(6頁第1段落)との箇所のみであり,この「25〜100ミリグラム」が,成人1日当たりの投与量か,体重1kg,1回当たりの投与量か,また,その際,1日何回の投与か等については表示がないが,その表示が投与量の記載において必須のものであることは当業者に明らかであり,かつ,本件明細書には,動物あるいはヒトに具体的に投与を行った実験結果も示されていないから,当業者が,上記「25〜100ミリグラム」を,上記いずれの表示であるのかを推測する手掛かりは全くない。

      原告は,本件明細書には,DCIの投与量に関して,「インビボの治療有効レベルのD−キロ−イノシトールの供給のための食事用補添物のビタミン量での供給によって,この欠乏が克服される」(5頁第1段落),「この食事用補添物の必要量は,臨床的に現われるインスリン抵抗性糖尿病を予防するための,またそれらの発生因子を有する個体においては臨床症状の発生を阻止するための,適切な手段を提供するに必要なビタミンと同程度の濃度となる」(5頁最終段落〜6頁第1段落)との記載があり,DCIの投与量が,ビタミン量であると明確に記載され,「一般に,投与量は25〜100ミリグラムの範囲で,いろいろな経由で行えばよい」(6頁第1段落)との記載に基づいて1000mg〜3000mg/日の投与量を用いると考えられ,さらに,DCIとその化学的特徴が比較的類似するビタミンCは,食事からの摂取が不十分な際の補給に,成人1日50〜2000mgを一ないし数回に分けて,経口投与するか,あるいは皮下,筋肉内又は静脈内注射することが公知である(甲35)こと等を理由に,本件明細書の「ビタミン量」の投与量との記載は,DCIの薬理効果と同視すべき記載に当たるとも主張する。しかしながら,本件明細書には,「上記の目的および以下の詳細な記載によって明かとされる他の目的は,治療有効量のD−キロ−イノシトールを含む食事用補添物を供給することによって達成される。この炭水化物は,・・・適当な治療量でビタミンとして投与される場合は,この炭水化物は消化管系の壁を介して直接に吸収され,インスリンメディエイタの合成に用いられる」(3頁第3段落),「インビボの治療有効レベルのD−キロ−イノシトールの供給のための食事用補添物のビタミン量での供給によって,この欠乏が克服される」(5頁第1段落),「この食事用補添物の必要量は,臨床的に現われるインスリン抵抗性糖尿病を予防するための,またそれらの発生因子を有する個体においては臨床症状の発生を阻止するための,適切な手段を提供するに必要なビタミンと同程度の濃度となる。一般に,投与量は25〜100ミリグラムの範囲で,いろいろな経由で行えばよい」(5頁最終段落〜6頁第1段落)と記載され,上記のビタミン量について具体的数値はないが,上記のとおり,「ビタミンと同程度の濃度となる」との記載に続けて「一般に,投与量は25〜100ミリグラムの範囲で」と記載されていること
から,少なくとも,本件明細書におけるDCIの投与量は,25〜100mg程度と理解されるものである。原告が主張するように,ビタミン量が多種の水溶性ビタミンの量であるとすることは,上記の「ビタミンと同程度の濃度となる」との記載と「一般に,投与量は25〜100ミリグラムの範囲で」との記載が全く関連がないとするものにほかならず,文脈上極めて不自然であり,原告の上記主張も採用することができない。
   (6) 以上に検討したところによれば,本件明細書(甲2)には,医薬発明に相当する本願発明について当業者が科学的に理解できる根拠となるべき薬理データ又はそれと同視すべき程度の記載があるとは認められないから,当業者が容易にその実施をすることができる程度に,本願発明の目的,構成及び効果が記載されているとはいえないとした審決の認定判断を誤りということはできず,原告の取消事由の主張は理由がない。

 2 以上のとおり,原告主張の取消事由は理由がなく,他に審決を取り消すべき瑕疵は見当たらない。
   よって,原告の請求は理由がないからこれを棄却することとし,主文のとおり判決する。


     東京高等裁判所第13民事部

         裁判長裁判官     篠  原  勝  美


                   裁判官     岡  本     岳


                   裁判官     早  田  尚  貴