H14.11.14 東京高裁 平成13(行ケ)436 特許権 行政訴訟事件

平成13年(行ケ)第436号 特許取消決定取消請求事件
平成14年10月31日口頭弁論終結
            判       決
      原        告   武田薬品工業株式会社
      原    告  株式会社アルテ
      両名訴訟代理人弁護士   布 井 要太郎
      両名訴訟代理人弁理士   青 山   葆
   同     河 宮   治
   同     石 野 正 弘
   同     稲 葉 和 久
      被        告   特許庁長官 太 田 信一郎
      指定代理人        小 林 信 雄

   同     梅 田 幸 秀
   同     千 壽 哲 郎
   同     涌 井 幸 一
   同     高 橋 泰 史
   同     大 橋 良 三
              主       文
   1 原告らの請求を棄却する。              
   2 訴訟費用は原告らの負担とする。
               事実及び理由          
第1 当事者の求めた裁判
 1 原告ら
   (1) 特許庁が異議2000−73116号事件について平成13年8月15日にした決定を取り消す。
  (2) 訴訟費用は被告の負担とする。
 2 被告
    主文と同旨
第2 当事者間に争いのない事実
 1 特許庁における手続の経緯
   原告らは,発明の名称を「プレフィルドシリンジ」とする特許第3009598号の特許(平成7年2月17日特許出願(優先権主張平成6年2月18日出願の特願平6−21485号),平成11年12月3日設定登録,以下「本件特許」という。)の共有特許権者である。なお,原告らは,拒絶査定不服審判において拒絶理由通知を受け,その指定期間内に,本件特許の出願の願書に最初に添付した明細書及び図面(以下,併せて「当初明細書」という。)について,平成11年9月29日付けで手続補正をしている(以下,「本件補正」といい,本件補正により補正された明細書及び図面を併せて「本件明細書」という。)。

   本件特許に対し,請求項1ないし6につき,特許異議の申立てがあり,特許庁は,この申立てを,異議2000−73116号事件として審理した。特許庁は,審理の結果,平成13年8月15日,「特許第3009598号の請求項1ないし6に係る特許を取り消す。」との決定をし,平成13年9月5日にその謄本を原告らに送達した。
 2 特許請求の範囲(以下,各項の発明をまとめて「本件発明」という。)。
 「 【請求項1】 前端および後端が開口された筒状容器内に摺動自在に嵌合され,筒状容器の内部空間を前室と後室とに仕切るフロントガスケットと,
    筒状容器の後端部に摺動自在に嵌合され,プランジャとして機能しうるように押圧用ロッドに接続可能とされたリヤガスケットと,
    前記後室内に収容された液を前室内に導入しうるように前記筒状容器に形成され,フロントガスケットより前方にフロントガスケットの軸長より大きい軸方向長さを有するバイパスとを具備したプレフィルドシリンジにおいて,

    上記フロントガスケットとリヤガスケットは,ノルマルブチルゴムおよびハロゲン化ブチルゴムの1種またはこれらのブレンドゴム製であり,夫々容器の内壁に圧縮された状態で気密的または液密的に摺接するピーク部を少なくとも2以上軸方向に間隔を置いて設けられ,フロントガスケットおよびリヤガスケットを容器内に嵌合配置した状態で,各ピーク部の圧縮率C(%)と各ガスケットの全てのピーク部の容器内壁との総接触面積St(mm)との積(C×St)の値が各ガスケット1個当り約300〜1200の範囲であり,
    フロントガスケットとリヤガスケットの間に液を収容した状態で滅菌乾燥処理したのちにおける各ガスケットの初動圧が1〜2Kg/cm
となるように設定されてなるプレフィルドシリンジ。
    【請求項2】 上記フロントガスケットが前後2つの隣接したガスケットからなる,請求項1のプレフィルドシリンジ。

    【請求項3】 前記筒状容器の後端開口とバイパスの間のバイパス寄りにフロントガスケット後側部分を挿入した状態で後室内に溶解液,分散液,薬液の少なくとも1つを充填した後端開口をガスケットで封鎖した後蒸気加熱滅菌および乾燥処理を行い,その後前端開口からフロントガスケット前側部分をバイパスとフロントガスケット後側部分の間に前後連接するように挿入した後,前端開口から薬剤を充填し前端開口をガスケットで封鎖して完成させることを特徴とする請求項2に記載のプレフィルドシリンジ。
    【請求項4】 各ガスケットにおける環状リブ間には,同リブ間を周方向に仕切る複数のブリッジが設けられていることを特徴とする請求項1または2に記載のプレフィルドシリンジ。
    【請求項5】 前端部がシール部材で密封されていることを特徴とする請求項1から3のいずれか1に記載のプレフィルドシリンジ。

    【請求項6】 筒状容器の前端開口部には,注射針付きキャップが着脱自在に装着されていることを特徴とする請求項1から4のいずれか1に記載のプレフィルドシリンジ。」
 3 決定の理由
    決定は,別紙決定書の写しのとおり,平成11年9月29日付けの補正(本件補正)は,特許法17条の2第3項の規定に違反してなされたものであるので,本件特許は,請求項1ないし6のいずれについても,特許法113条1号に該当し,取り消されるべきものである,と認定判断した。
第3 原告ら主張の決定取消事由の要点
    決定は,当初明細書の記載内容の認定判断を誤り(取消事由),その結果,本件補正は,当初明細書に記載した事項の範囲内においてしたものとは認められないと,誤って判断した。この誤りが決定の結論に影響を及ぼすことは明らかであるから,決定は,違法として取り消されるべきである。

 1 本件補正の内容
    本件補正は,当初明細書におけるSとStの定義を,次の(ア),(イ)のとおり補正する,というものである。決定は,この本件補正を,特許法17条の2第3項の規定に違反するものとした。しかし,この判断は,誤りである。
     (ア) 当初明細書においては,Sを,「(1ガスケットの)環状リブの総接触面積」と定義していたのを(甲11号証,【0048】,【0049】),「(1ガスケットの)各環状リブの接触面積」(甲2号証【0048】,【0049】)と補正した。
     (イ) 当初明細書においては,Stを,「全ガスケットについての環状リブの総接触面積」と定義していたのを(甲11号証,【0048】,【0049】),「各ガスケットあたりの環状リブの総接触面積」(甲2,甲5号証【0048】,【0049】)と補正した。

 2 当初明細書の開示内容と本件補正
   (1) 本件補正により補正された事項のうち,上記(ア)に係るものの内容は,当初明細書(甲11号証)に記載されている。
     @ 当初明細書の請求項1の7行から10行
        「前記フロントガスケットおよびリヤガスケットは,それぞれ,筒状容器の内壁にシール可能に摺接する環状リブが外周部に形成されているとともに,筒状容器内に収納された状態で,その環状リブの圧縮率(%)の値が2〜10で,その圧縮率(%)と筒状容器内壁に対する環状リブの接触面積(mm2)との積の値が150〜400となるように設定されている」
     A 同段落【0015】
        「前記フロントガスケットおよびリヤガスケットの外周部に,それぞれ,筒状容器の内壁にシール可能に摺接する環状リブが形成されているとともに,前記フロントガスケットおよびリヤガスケットが筒状容器内に収納された状態で,その環状リブの圧縮率(%)の値が2〜10で,その圧縮率(%)と筒状容器内壁に対する環状リブの接触面積(mm2)との積の値が150〜400となるように設定されている」

     B 同段落【0019】
        「さらに,環状リブの圧縮率C(%)と接触面積S(mm2)との積(C×S)の値を150〜400の範囲に設定した理由は,後述する実施例で示すように,圧縮率Cや接触面積Sあるいは材質等の異なる各種のサンプルについて,蒸気加熱減菌処理前後の気密性と摺動値(初動値)の経時的変化とを測定した結果,圧縮率×接触面積の値(C×S)が約150〜400の範囲にあるサンブルが良好な気密性および摺動値を示すことが判明したからである。」
     C 同段落【0047】の【表2】
        C×Sの値として,159,223,452,172,261(第1〜第5実施例)が記載されている。
      以上の記載事項,特にBには,環状リブの接触面積がSであることが明記されている。そして,環状リブの圧縮率と接触面積との積の値の範囲が150〜400であることは,上記記載事項の@ないしBに記載されており,Cの【表2】の実施例の数値はこれを裏付けている。これらから明らかなように,Sが各環状リブの接触面積であることは,当初明細書の段落【0048】の後記記載を除き一貫しており,段落【0048】のSの定義が誤記であることは明らかである。

   (2) 本件補正により補正された事項のうち,上記(イ)に係るものの内容は,当初明細書(甲11号証)に記載されている。
     @ 当初明細書の段落【0021】
        「また,筒状容器に嵌合されるガスケットの個数が2〜4個の場合は,その環状リブの圧縮率(%)と容器内壁に対する総接触面積(mm2)との積の値を300〜1200とするが,その中でも400〜900が特に好ましい。この場合,〔圧縮率×総接触面積〕の下限値である300は内径の比較的小さい筒状容器を想定したものであり,上限値である1200は内径の大きい筒状容器を想定したものである。」
     A 同段落【0026】
        「しかし,本発明のプレフィルドシリンジにおいては,このような点をあらかじめ考慮して,フロント及びリヤの各ガスケットにおける環状リブの圧縮率(%)と,この圧縮率(%)と容器内壁に対する接触面積(mm2)との積の値が,従来のプレフィルドシリンジにおけるガスケットの場合に比べて大きい所定の範囲に設定されているから,前記の製造時処理や長期保存による圧縮変形を起こした場合でも良好な摺動性と十分な気・液密性が確保されることとなる。」

     B 同段落【0047】の【表2】
        【表2】の最右欄には,C×Stの値として,その左の欄C×Sの値の2倍の例えば159に対して318(第1実施例),223に対して446(第2実施例),452に対して904(第3実施例),172に対して344(第4実施例),261に対して522(第5実施例)が記載されている。
     C 当初明細書の図1ないし図7には,各ガスケットが2ないし3個の環状リブを有することが明示されている。
      以上の記載事項から明らかなように,【表2】のC×StのCは環状リブの圧縮率で,C×Sにおけるのと共通であることを考慮すると,Stは,各環状リブの接触面積Sの2倍の値となることは明らかであり,Sは,2個の環状リブを備えたガスケット1個当たりの接触面積を表すものと考えることができる。また,上記@に記載された300〜1200との値の範囲は,一個のガスケットのC×Stの範囲を示すことは明らかである。すなわち,300は,環状リブの下限値150の2倍であるから,下限値の環状リブを2個備えたガスケットに対応し,1200は環状リブの上限値400の3倍であるから,上限値の環状リブを3個備えたガスケットに対応する。したがって,300〜1200という値の範囲は,一個のガスケットのC×St,すなわち,環状リブの圧縮率とガスケット一個の総接触面積との積の範囲を表している。

 3 当初明細書における誤記の存在と誤記であることの明白性
   (1) 当初明細書の段落【0048】には,「Sは下記の式(2)によつて示される環状リブの接触面積(mm
)」と記載され,段落【0049】には,次の記載がある。
     「S(mm
)=πr(d+d+・・・d)  ・・・(2)
       (ただし,d
,d,・・・,dは,それぞれの環状リブが筒状容器1の内壁に摺接する接触幅)」
      この(2)式は,Sが複数の環状リブの接触面積の和であることを示しており,上で繰り返し述べたことからして,明らかに誤りである。すなわち,当初明細書においては,その段落【0048】,【0049】におけるSの定義が間違っていたのである。
      また,当初明細書の段落【0048】においては,「Stは全てのガスケット・・・についての環状リブの総接触面積(mm
)」と定義されている。このStの定義の誤りは,Sの定義の聞違いに連動している。すなわち,Sを複数の環状リブを有するガスケットの総接触面積と定義したため,Stは一つ上の位の接触面積である,すべてのガスケットの総接触面積として定義してしまったのである。
   (2) 原告らは,平成13年6月4日付けの特許異議意見書において,「Sが当初の明細書の記載のように,1ガスケットの環状リブの総接触面積とすると,環状リブの接触幅は,2環状リブの場合:1.013/2=0.5065mm/環状リブ,3環状リブの場合:1.013/3=0.3377mm/環状リブとなる。内直径が10.5mmのシリンジにおいて,接触幅が0.5mm以下の環状リブは,余りにも薄すぎるためシール機能を持つことができないことは,当業者にとって自明である。」と主張した。これに対し,決定は,「表2に基づき上記の計算を行い,その結果,複数環状リブの場合の1つの環状リブ当りの接触幅が0.5mm以下になるとしても,通常の環状リブの接触面積が1mmであることを考慮すれば,両者の数字間に,当業者の常識からみて誤記であると判断しうるほどの乖離があるとは判断できない。したがって,出願当初のSの定義に関する記載から,Sの定義に関する補正を直接的且つ一義的に導き出すことはできない。また,出願当初のSは上記補正後のStであるから,Stの補正に関しても,上記Sについての判断が適用できる。したがって,出願当初のStの定義に関する記載から,Stの定義に関する補正を直接的且つ一義的に導き出すことはできない。」(決定書5頁)と判断した。しかし,当初明細書における段落【0048】,【0049】のSとStの定義が誤記であることは,当業者の技術常識から明らかであるから,決定の上記判断は誤りである。
     (ア) 特開平6−154324号公報(甲7号証。以下「甲7文献」という。)には,「ガスケットが有する1ケのピークが接触している面積が,第2表(表3)に示すごとく,d
=0.7未満S=25mm未満で吸引試験不適合になることを見出した。」,「この事実より吸引試験に適合するような気密性あるいは液密性に優れたプレフィルシリンジ用ガスケットを製作するためには,ガスケットの接触幅と接触面積は,ガスケットの有する少なくとも1ケのピークにおいて,それぞれ少なくとも0.7mm以上あるいは28mm以上であることが必要である。」(【0015】),との記載がある。この記載によれば,ガスケットの1個のピークの接触幅は,シール性能に強く関係し,0.7mmが下限値であることが明確に示されている。
       特開平6−343677号公報(甲8号証。以下「甲8文献」という。)には,「この弾性体素面は胴部端に幅mの環状帯17を形成していて,その幅mは0.5〜10mmが好ましい。0.5mm未満では気密性の確保が充分でなく」(【0008】),との記載がある。この記載によれば,ガスケットの1個のピークの接触幅が0.5mm未満ではシール性が確保できないことが明確に示されている。
       このように,甲7文献,甲8文献には,ガスケットの1個のピークの接触幅が0.7mm未満,0.5mm未満では,シール性が十分でないことが明記されており,このことからすれば,ピーク接触幅を0.5mm未満とすることはあり得ないということは,当業者にとっての技術常識であった,というべきである。甲7文献及び甲8文献のいずれにおいても,1.0mmの接触幅は,下限値0.7mm,0.5mmを上廻っており,シール性に問題がないものであり,接触幅の0.5mmと1.0mmとの間には,シール性の見地からして決定的な差異がある。すなわち,この種のガスケットの1個のピークの接触幅における0.5mmと1.0mmという数字の間には,当業者の常識からみて誤記であると判断し得るほどの乖離がある,というべきである。

     (イ) 関西医科大学・附属病院薬剤部長A博士の意見書(甲13号証)及び東京医科歯科大学歯学部附属病院薬剤部長B氏の意見書(甲14号証)には,当業者の技術常識からすれば,環状リブの1個のピークの接触幅を0.5mm以下とするようなガスケットは到底実用に供し得ないことが明記されている。
   (3) 当初明細書の段落【0048】及び【0049】に記載されたS及びStの定義が誤っていることは,本件特許の審査段階において,審査官によっても指摘されていたところである。
     (ア) 審査官により平成9年2月13日に起案された拒絶理由通知書(甲12号証)の理由(II)の記の欄3行ないし8行に,次の指摘がある。
        「【0048】及び【0049】の「Stは全てのガスケット・・についての・・総接触面積」及び「S・・=πr(d
+・・d)・・(ただし,d・・それぞれの・・接触幅)」について,後者の「S」が誤記であることはもとより,請求項1の記載から第1,第2及びリヤガスケットは,各々,「少なくとも2つの環状リブ」を有すること,即ち,n≧6であることからみると,「表2」の「C×St」の数値は明らかに異常である。」
        この拒絶理由通知は,@SはStの誤記である,A(2)式のSをStに変えたとしても,すべてのガスケットの環状リブの総接触面積とすると,「表2」のC×Stの数値は明らかに異常である。すなわち,「表2」のC×Stの数値からすれば,(2)式の定義は明らかに間違っている,との2点を指摘している。
        審査官は,「S」はもともと単独の環状リブの接触面積を表すことが明らかであることから,上記(2)式の「S」が,「St」の誤記であろうと判断したものと考えられる。
        審査官は,その後半部において,上記「St」の定義によれば,「St」はすべてのガスケットの総接触面積であり,すべてのガスケットは第1,第2及びリヤガスケットの3個のガスケットからなり,各ガスケットは「少なくとも2つの環状リブ」を有することを考えると,すべてのガスケットは少なくとも6個の環状リブを有することとなることから,「St」は少なくとも単独の環状リブの接触面積の6倍(6×S)の値を持つはずであり,【表2】のC×Stの値が,第1から第5の実施例において,C×Sの値の2倍でしかないことは,「St」は「S」の6倍以上であるという上記のことと明らかに矛盾するものであり,これを「表2のC×Stの値は明らかに異常である。」と表現したのである。

     (イ) 原告らは,審査官の上記の指摘に対し,当初明細書の【表2】の数値をみて,その数値に誤りのないことを確認したものの,この段階で段落【0048】,【0049】におけるS及びStの定義の誤りに気付かなかった。原告らは,拒絶査定に対する審判を請求した後,審判における拒絶理由通知書を受け取った段階で,この誤りに気付いたのである。原告らは,上記の誤りに気付いた後,審判官に面接を求め,面接の場でSおよびStの定義に明らかな誤りがあったことを説明し,これら定義の誤りを本件補正により補正することについて,審判官の了承を得たものである。
 4 以上のように,本件補正は,当初明細書の段落【0048】,【0049】におけるS及びStの定義の誤りを正して,当初明細書の上記段落の記載事項中の矛盾の解消を図るもの以外のなにものでもなく,また,上に記したことから明らかなように,当初明細書の段落【0048】,【0049】以外に記載されていることと整合するものでもあって,何ら,本件発明の実体を変更するものではなく,これを拡張するものでもない。したがって,本件補正は,特許法17条の2第3項の規定の要件を満たすことが明らかである。これを満たさないとした決定は取り消されなければならない。

第4 被告の反論の骨子
   当初明細書におけるS及びStの定義は,当初明細書全体の記載と何ら矛盾するものではなく,これを明白な誤記と解する余地はないから,その定義のとおりに解釈すべきである。したがって,S及びStの定義を変更する本件補正は,当初明細書に記載した事項の範囲内においてなされたものではなく,特許法17条の2第3項に違反するものである。決定に,原告らが主張する,当初明細書の開示事項についての認定判断の誤りはない。
第5 当裁判所の判断
 1 本件補正の内容について
    原告らが,本件補正により,当初明細書のSとStの定義を,次の(ア),(イ)のとおり補正したことは争いがない。
     (ア) 当初明細書においては,Sを,「(1ガスケットの)環状リブの総接触面積」と定義していたのを(甲11号証【0048】,【0049】),「(1ガスケットの)各環状リブの接触面積」(甲2号証【0048】,【0049】)と補正した。

     (イ) 当初明細書においては,Stを,「全ガスケットについての環状リブの総接触面積」と定義していたのを(甲11号証【0048】,【0049】),「各ガスケットあたりの環状リブの総接触面積」(甲2号証【0048】,【0049】)と補正した。
 2 本件補正と当初明細書の開示内容について
    本件特許の特許請求の範囲の【請求項1】は,当初明細書においては「その環状リブの圧縮率(%)の値が2〜10で,その圧縮率(%)と筒状容器内壁に対する環状リブの接触面積(mm
)との積の値が150〜400となるように設定されていること」と記載されていた部分が,本件補正により,「各ピーク部の圧縮率C(%)と各ガスケットの全てのピーク部の容器内壁との総接触面積St(mm)との積(C×St)の値が各ガスケット1個当り約300〜1200の範囲であり」と補正されている(甲2,甲5,甲11号証)。
    本件明細書におけるStは,上記1のとおり,各ガスケット当たりの環状リブの総接触面積である。これは,当初明細書においてSに与えられている定義に当たるものである。したがって,当初明細書に,「各ピーク部の圧縮率と各ガスケットの全てのピーク部の容器内壁との総接触面積との積の値が各ガスケット1個当り約300〜1200の範囲であり」との発明が記載されていたかどうかを,検討する必要がある。
   (1) 原告らは,上記(ア)の補正について,当初明細書中の【請求項1】,段落【0015】,【0019】,【表2】中の具体的な箇所を,上記(イ)の補正について,当初明細書中の段落【0021】,【0026】,【表2】中の具体的な箇所を,それぞれ摘示し,本件補正が当初明細書に記載した事項の範囲内である,と主張している。

      しかし,原告らが上記(ア)の補正について指摘する,【請求項1】,段落【0015】,【0019】に記載されているのは,「環状リブの圧縮率(%)の値が2〜10で,その圧縮率(%)と筒状容器内壁に対する環状リブの接触面積(mm)との積の値が150〜400となる」ということであるにすぎず,【表2】に記載されている数値もほぼこの数値の範囲に含まれる数値であることからすれば,この環状リブの接触面積Sが,1個のガスケットの単一の環状リブの接触面積なのか,1個のガスケットの複数の環状リブの総接触面積なのかについては,これらの記載からは一義的には明確でないという以外にない。しかし,環状リブの接触面積Sについては,当初明細書の段落【0048】及び【0049】において,「Sは下記の式(2)によって示される環状リブの接触面積(mm),Stは全てのガスケット(この場合はフロントガスケット3およびリヤガスケット2)についての環状リブの総接触面積(mm),C×Sは圧縮率と接触面積との積,C×Stは圧縮率と総接触面積との積の各値である。」(【0048】),
     「S(mm)=πr(d+d+・・・d)  ・・・(2)
     (ただし,d
,d,・・・,dは,それぞれの環状リブが筒状容器1の内壁に摺接する接触幅)」(【0049】)と明確に定義されているのであり,この定義からすると,当初明細書の上記【請求項1】,段落【0015】,【0019】の環状リブの接触面積S(mm)とは,1個のガスケットの複数の環状リブの総接触面積と理解する以外にないのである。そして,環状リブの接触面積S(mm)についてのこの定義と当初明細書の上記記載との間には,特段矛盾するところはない。また,【表2】の第1ないし第5実施例のC×Stの値は,いずれもC×Sの各値の2倍であることは,ガスケットが二つの場合を想定すると矛盾なく説明できるのであり,前記定義は,【表2】の各数値とも矛盾しない。さらに,当初明細書全体を通じてみても,環状リブの接触面積Sについての前記段落における定義と矛盾する記載はない。
      原告らが,上記(イ)の補正について指摘する,当初明細書中の段落【0021】,【0026】には,「筒状容器に嵌合されるガスケットの個数が2〜4個の場合は,その環状リブの圧縮率(%)と容器内壁に対する総接触面積(mm)との積の値を300〜1200とするが,その中でも400〜900が特に好ましい。」(【0021】)等の記載と,【表2】の最右欄のC×Stの値が,その左欄のC×Sの値の2倍であるとの記載がある。これらの記載は,環状リブの総接触面積Stについての「Stは全てのガスケット(この場合はフロントガスケット3およびリヤガスケット2)についての環状リブの総接触面積(mm)」との,当初明細書の段落【0048】における前記定義と何ら矛盾するものではなく,むしろ,その内容が整合するものである。また,当初明細書全体を通じてみても,環状リブの接触面積Stについての段落【0048】における定義と矛盾する記載はない。
   (2) 原告らは,上記(ア)の補正について,とくに段落【0019】には,Sは1個の環状リブの接触面積であることが明記されている,と主張する。しかし,この段落の記載である「環状リブの・・・接触面積S(mm)」から,Sが1個の環状リブの接触面積であることを一義的に明確に導き出すことができるものではないことは,上記認定のとおりである。
      原告らは,【表2】のC×StのCは環状リブの圧縮率で,C×Sと共通であることを考慮すると,Stは,各環状リブの接触面積Sの2倍の値となることは明らかであり,Sは,2個の環状リブを備えたガスケット1個当りの接触面積を表すものと考えることができる,と主張する。しかし,当初明細書には,各実施例がフロントガスケット及びリヤガスケットを有するものとして説明されており,当初明細書の段落【0048】には「Stは全てのガスケット(この場合はフロントガスケット3およびリヤガスケット2)についての環状リブの総接触面積」と記載されているのであるから(甲5号証),C×Stの値がC×Sの値の2倍となるのは,フロントガスケットとリヤガスケットの二つのガスケットを有することに由来すると解すべきであることは明らかである。原告らの上記主張は採用することができない。

      原告らは,当初明細書の段落【0021】に記載された300〜1200という値の範囲は,一個のガスケットのC×Stの範囲を示すことは明らかである,すなわち,300は,環状リブの下限値150の2倍であるから,下限値の環状リブを2個備えたガスケットに対応し,1200は環状リブの上限値400の3倍であるから,上限値の環状リブを3個備えたガスケットに対応する,したがって,300〜1200という値の範囲は,一個のガスケットのC×St,すなわち,環状リブの圧縮率とガスケット一個の総接触面積との積の範囲を表している,と主張する。しかし,当初明細書には,「2成分型プレフィルドシリンジにおいては,前述したようにフロントガスケットが前側部分と後側部分とに2分割されたものと,そうでないものとがあり,さらに筒状容器内においてフロントガスケット前方の前端開口部近傍に摺動自在な別のガスケットが装着されるものがあるが,本発明は,それらのいずれのタイプにも適用することができる。」(甲11号証,【0020】)と記載され,また,前記の「筒状容器に嵌合されるガスケットの個数が2〜4個の場合は,その環状リブの圧縮率(%)と容器内壁に対する総接触面積(mm2)との積の値を300〜1200とする」(【0021】)との記載からすれば,ガスケットの数が2個ないし3個以上の場合もあることは明らかであるから,C×Stについては,1個のガスケットのC×Sの値である150ないし400の値の2倍ないし3倍の値に設定されたものと解するのがむしろ自然であり,原告ら主張のように解釈すべき必然性はない。
   (3) このように,当初明細書におけるS及びStを,当初明細書の段落【0048】及び【0049】に定義されたとおりに解釈しても,当初明細書全体と何ら矛盾は生じないばかりか,かえって,これらを原告らの主張のとおりに解釈すれば,当初明細書の段落【0048】及び【0049】の記載と明らかに矛盾するものとなり,当初明細書全体を統一的に理解することが不可能となる。そうである以上,本件補正(これは,要するに,S及びStを原告ら主張のとおりのものとする補正である。)につき,当初明細書に記載した事項の範囲内のことであるとする原告らの上記主張は,採用することができないという以外にない。

 3 当初明細書における誤記の存在と誤記であることの明白性について
    原告らの平成13年6月4日付けの特許異議意見書における「内直径が10.5mmのシリンジにおいて,接触幅が0.5mm以下の環状リブは,余りにも薄すぎるためシール機能を持つことができないことは,当業者にとって自明である。」との主張に対し,決定は,「表2に基づき上記の計算を行い,その結果,複数環状リブの場合の1つの環状リブ当りの接触幅が0.5mm以下になるとしても,通常の環状リブの接触面積が1mmであることを考慮すれば,両者の数字間に,当業者の常識からみて誤記であると判断しうるほどの乖離があるとは判断できない。したがって,出願当初のSの定義に関する記載から,Sの定義に関する補正を直接的且つ一義的に導き出すことはできない。また,出願当初のSは上記補正後のStであるから,Stの補正に関しても,上記Sについての判断が適用できる。したがって,出願当初のStの定義に関する記載から,Stの定義に関する補正を直接的且つ一義的に導き出すことはできない。」(決定書5頁)と判断した。

   (1) 原告らは,甲7文献の記載から,ガスケットの1個のピークの接触幅は,0.7mmが下限であることが分かり,甲8文献の記載から,ガスケットの1個のピークの接触幅は,0.5mm未満ではシール性が確保できないことが分かる,と主張する。
      しかし,甲8文献中の,「この弾性体素面は胴部端に幅mの環状帯17を形成していて,その幅mは0.5〜10mmが好ましい。0.5mm未満では気密性の確保が充分でなく,また10mmを超えると摺動性が悪くなるからである。」(甲8号証【0008】)との記載からすれば,そこでは,「0.5mm」は好ましいピーク接触幅の範囲内のものとして記載されているにすぎない,と解すべきである。したがって,甲8文献の記載事項は,ピーク接触幅を0.5mm未満とすることは,あり得ない,ということが当業者にとっての技術常識である,との原告ら主張の根拠とはなり得ない。

      原告らは,甲7文献及び甲8文献のいずれによっても,1.0mmの接触幅は,それらで下限値とされている0.7mm,0.5mmを上廻っており,シール性に問題がないものであり,接触幅の0.5mmと1.0mmとの間には,シール性の見地からして決定的な差異がある,すなわち,この種のガスケットの1個のピークの接触幅における0.5mmと1.0mmという数字の間には,当業者の常識からみて誤記であると判断し得るほどの乖離がある,というべきである,と主張している。
      しかし,明細書中に記載されている数値につき,正常な数値との間に,当業者の常識からみて誤記であると判断し得るほどの乖離があるとして,これを誤記と認めることが許されるのは,当業者が,その数値をみて,正常とされる数値に照らし技術常識上絶対にあり得ない,と判断できる乖離がある場合,具体的には,明らかに実施不可能であるか,実用上想定し得ない程度の数値である場合である,と解するのが妥当である。この観点に立った場合,上記甲7文献,甲8文献の記載をみても,ガスケットの1個のピークの接触幅が0.5mm程度のものを,明らかに実施不可能であるとも,実用上用いることが想到できない程度のものであるとも,認めることはできないのである。したがって,0.5mmと1.0mmという数字の間に当業者の常識からみて誤記であると判断し得るほどの乖離がある,との原告らの主張は,採用することができない。

   (2) 原告らは,関西医科大学・附属病院薬剤部長A博士の意見書(甲13号証)及び東京医科歯科大学歯学部附属病院薬剤部長B氏の意見書(甲14号証)には,当業者の技術常識からすれば,環状リブの1個のピークの接触幅を0.5mmとするようなガスケットは到底実用に供し得ないことが明記されている,と主張する。
     確かに,上記各意見書には,環状リブの1個のピークの接触幅は1mm前後が一般的であり,薬物の混入又は液漏れ等の問題が生じるため,環状リブの1個のピークの接触幅を0.5mmとすることは,常識的に考えられない,との意見が記載されている(甲13,甲14号証)。しかし,上記甲8文献の記載によれば,環状リブの1個のピークの接触幅として,0.5mmは好ましい接触幅の範囲内のものとして記載されているのであり,甲7文献によっても,その下限値は0.7mmと記載されていることからすれば,当業者が,1個のピークの接触幅が0.5mm程度の環状リブを,その数値をみて,正常とされる数値に照らし技術常識上絶対にあり得ないものであるとか,明らかに実施不可能であり,実用上想定し得ない程度の数値であるとか,と判断するものと認めることはできない。上記甲13,甲14号証は,甲7文献及び甲8文献の上記記載に照らし,上記認定と抵触する限りにおいて,採用することができない。

   (3) 明細書における明白な「誤記」とは,もともと,その字句又は語句が,本来記載されるべき字句又は語句を誤って記載したものであることが一見して明らかであり,誤記であることについて議論の余地がない場合をいうのである。前後関係などから誤記であることが一見して明らかであるとはいうことのできない本件においては,当初明細書中の文言が「誤記」と判断されるためには,少なくとも,補正される前の当初明細書における当該文言と当該文言以外の表現との間に明らかな矛盾があることが,当然の前提として必要とされることになる。しかし,当初明細書においては,上記認定のとおり,段落【0048】,【0049】におけるS及びStの定義と当初明細書のその余の記載との間には特段の矛盾はない,と解することが可能であり,同明細書に記載された発明を明確に把握することができる。そうである以上,本件補正前の当初明細書におけるS及びStの定義が上記の意味での明白な誤記であると認めることは到底できないのである。
      以上のとおりであるから,本件補正により,当初明細書において記載されていた,【表2】の数値の基礎となっているSとStの概念の定義を変更し,かつ,当初明細書において,「環状リブの圧縮率(%)と(すべてのガスケットの)容器内壁に対する総接触面積St(mm)との積の値を300ないし1200とする」(甲11号証【0021】)と記載されていたものを,本件補正により,「各ピーク部の圧縮率C(%)と各ガスケットの全てのピーク部の容器内壁との総接触面積St(mm)との積(C×St)の値が各ガスケット1個当り約300〜1200の範囲であり」(甲2号証【請求項1】)と補正することは,明白な誤記の訂正ではなく,当初明細書に記載されていない新規事項を追加するものであることが明らかである。
   (4) 原告らは,当初明細書の段落【0048】及び【0049】に記載されたS及びStの定義が誤っていることは,本件特許の審査段階において審査官により指摘されていたとおりである,と主張する。

     審査官は,その拒絶理由通知において,「【0048】及び【0049】の「Stは全てのガスケット・・についての・・総接触面積」及び「S・・=πr(d+・・d)・・(ただし,d・・それぞれの・・接触幅)」について,後者の「S」が誤記であることはもとより,請求項1の記載から第1,第2及びリヤガスケットは,各々,「少なくとも2つの環状リブ」を有すること,即ち,n≧6であることからみると,「表2」の「C×St」の数値は明らかに異常である。」(甲12号証)と記載しており,その前段において,当初明細書の段落【0049】の(2)式のSがStの誤記であるとの認識,及び,【表2】のC×Stの値が異常であるとの認識を表明している。審査官は,Sは,1個のガスケットの1個の環状リブの接触面積であり,Stは,複数個のガスケットのすべての環状リブの総接触面積であるとの理解の下に,上記のような指摘をしたものであることが明らかである。したがって,審査官の当初明細書についてのこの理解は,本件補正の内容,すなわち,本件明細書に記載された本件発明の内容とも異なる理解を示しているものである。しかし,審査官のこの理解によれば,当初明細書の【表2】のC×SとC×Stの数値のどちらかが異常な値となり,当初明細書を矛盾なく理解することができなくなる。これに対し,当初明細書の段落【0048】,【0049】におけるSとStの定義をそのとおりに理解すれば,当初明細書全体を矛盾なく理解することができることは,前記認定のとおりである。以上からすれば,当初明細書の解釈として,審査官のこの解釈を参考とすることは相当でなく,審査官の当初明細書のこの解釈を前提とする原告らの主張は,採用することができない。
 4 結論
    以上に検討したところによれば,原告らの主張する取消事由には理由がなく,その他,決定には,これを取り消すべき瑕疵は見当たらない。そこで,原告らの請求を棄却することとし,訴訟費用の負担について,行政事件訴訟法7条,民事訴訟法61条,65条1項を適用して,主文のとおり判決する。

   
   東京高等裁判所第6民事部


           裁判長裁判官         山  下  和  明


              裁判官        設  樂  隆  一
                            


              裁判官         高  瀬  順  久